と思ってしまう表現力、その絵から与えられる刺激とプレッシャーに圧倒されるような作品です。, 空海と最澄は3巻までの今のところ別々の場所で己を磨いている姿を描かれていますが、いずれこのふたりが出会い、お互いを高め合って協力していくことになるはずです。, お互いが持つ異常なまでの執念や苦悩がどのように絡み合っていくのか!? 密教は初期、中期、後期に分かれる。初期は雑密といい、真言を唱え呪術を操ることは行われていた。, しかし体系化されたものではなかった。言葉に呪力を込める行為は密教派生以前に、既に仏教で取り入れられていた。, 様々な修法が体系づけられ、大いなる存在(大日如来)が宇宙を司るという理論が確立し、『大日経』『金剛頂経』などの経典が編纂された。, それは瞑想による性的な瑜伽(ゆが)が重要視されるなど、秘儀により悟りに迫ろうとする教えもあり、スートラ(仏教では釈迦の教法を文章にまとめた経)に代わりタントラ(女性原理=性力を教義の中心とする聖典)も構成されている。, こちらはJBpress Premium会員(有料会員)限定のコンテンツです。有料会員登録(月額 500円[税抜]、最初の月は無料)をしてお読みください。, ※「JBpress」に掲載している記事や写真などの著作権は、株式会社JBpressまたは執筆者などコンテンツ提供者に帰属しています。これらの権利者の承諾を得ずに、YouTubeなどの動画を含む各種制作物への転載・再利用することを禁じます。. こちらの記事で最澄について、かんたんにわかり易く紹介しています。 >>>5分で最澄を知る!仏教で日本に与えた影響、空海との違いについて . 5つ星のうち5.0 7. マンガ紹介サイト「HyperLexia(マンガ)」を開設してからもう少しで3か月になりますが、マンガ... 美味しいもん食べてたら美味い美味い言うだけで時間が過ぎる。最高の贅沢だ。 食べることは生きるこ... ジョギングしている松風さんのマイペースさと男の妄想のズレに笑えてしまうショートコメディ。著者・橙夏りり先生のコメントを掲載したマンガレビュー記事です。. 唐の皇帝が帰依し、空海が日本に伝えた密教は、この中期密教(純密)にあたる。(1/5) (1/5) 密教はインドで仏教の最終段階に発生した教えである。 その間、最澄は空海から多くの経典を借用していましたが、「理趣経」の借用をめぐってトラブルが発生し、関係が悪化します。 そんな中で、弘仁7年5月1日付の最澄から泰範宛の手紙の返信を、空海が代 … B 2018年1月12日より1月26日まで『コミックNewtype』にて3週連続で連載されたあと、単行本が上下巻で発売された。作画は睦月れい。 原作は夢枕獏『沙門空海唐の国にて … 趣味は読書とヨーロッパ旅行です。ドイツには5年余り滞在経験があります。某大学の人間科学部とデザイン学部を卒業。心が豊かになる知識の探索を人生の糧にしています。. © 2008-2020 Japan Business Press Co.,Ltd. ‚»‚µ‚āA‚±‚̎莆‚É‚æ‚èÅŸ‚Ƒה͂̂‚Ȃª‚è‚͐؂êAÅŸ‚Æ‹óŠC‚ÌŒð—¬‚à‚¢‚Á‚³‚¢–³‚­‚È‚è‚Ü‚µ‚½B. 空海の名は知らずとも、弘法大師なら知っている方も多いのではないでしょうか? 最近は歴史系のマンガがすごくおもしろいですよね。当サイトで紹介している「 シュトヘル」や「ヴィンランド・サガ」が歴史マンガの分類に入ります。, おもしろい歴史マンガないかなーと思っていたときに見つけた、「月刊!スピリッツ」でおかざき真里先生が連載中の歴史マンガを紹介します。, おかざき真里先生といえば、「サプリ」や「& -アンド-」などで知られる恋愛系マンガが多いイメージの漫画家ですよね。, 女性作家というだけあって、女性の仕事や恋愛・人間関係を繊細にかつ少し重めな感じで描くことが多いように思っていましたが、歴史をテーマにしてこんな圧倒されるような凄い表現力でマンガを描くことができる漫画家なんだとびっくりしています。, 弘法大師の名で知られる男、空海。比叡山延暦寺の開祖、最澄。ふたりの天才は出世街道からドロップアウトする。革命はそこから始まるー。, そこで、山籠もりを続ける最澄。正しさを説く彼を慕う者が次々と集まるが、ある日、その正しさが揺らぐ事件が起こる。, 一方で、けものとなり激しい修行を経てついに我を見た真魚。たどり着いた丹生の里で空海の名を得る。, この作品は、そんな歴史上の人物・空海と最澄の生き様を壮大なる表現力で描いた歴史マンガである。, この作品では、空海と最澄に焦点を当てた歴史マンガです。しかしながら、空海と最澄については、中学生ぐらい?のときに習ったけどほとんど思えていない人も多いでしょう。, 最澄(さいちょう)とは、平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生まれ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)という。最澄の先祖は後漢の孝献帝に連なるといわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。, とても人望があり優しい口調で会話をしますが、やはり教典を読む量や理解度、さらには読んだ教典の暗記まで尋常じゃないほどの努力家。, しかし、それをまったく苦に思っておらず、「全世界を救います。」と周囲の修行僧が愕然とするぐらい目指しているのもに違いがあります。, 目の前で女人が殺されるという残酷な光景を目の当たりにすることで己の無力さを感じてさらに自分を追いつめる描写は、すごく重く苦しい表現で描かれています。, 空海(くうかい)とは、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)ので知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。, マンガとしてのキャラ(画像では真ん中)では、ケモノと見間違えるほどすごく野性味溢れる豪快な人物として描かれています。, 幼い頃から目上の人にも臆することなく矛盾を指摘し、崖から落とされることとなるが、戻ってくることで落とした知識人が慌てふためく姿に落胆するという、人間や勉学にがっかりして達観する姿も見せる。, 「死の淵ギリギリまで自分を追いつめるクセがある。」と粗削りで周囲を巻き込み、ケモノのように自分の体を顧みることをしない描写は、読んでいる側を恐れさせ身震いするような強い表現で描かれています。, このように一見対照的に描かれているふたりですが、このふたりに共通する尋常なまでの知識や精神に対する強い欲求がすごく重苦しく描かれていて、見るものを圧巻するでしょう。, もともとおかざき真里先生の独特な執筆作法がこの内容にとても合っていて、マンガというよりは芸術的な絵画か!? 後白河法皇の供養のため鎌倉時代に写経された『理趣経』(『白描絵料紙理趣経』:国宝), 11/16-12/4「JBpress DX World 2020」登録受付中!池上彰氏、野中郁次郎氏、新井紀子氏、森岡毅氏、藤井保文氏、カインズ社長、味の素副社長など登場!. ©Copyright TRANS.,Inc..All Rights Reserved. みなさんは空海と最澄についてご存知ですか? 多くの方々は「学生時代に学んだような...けど誰だっけ?何をやった人だっけ?」とあまり覚えていない人が多いのではないでしょうか。 そのような方々のために、今回「終活ねっと」では空海と最澄について徹底解説をしていこうと思います。 「終活ねっと」では他に以下のような記事を公開しています。 よかったらそちらの方もご覧ください。 天台宗の開祖である「最澄」について知っていますか?最澄は「空海」と同じ時期に唐に渡り仏教を学びました。帰国後の二人は日本の仏教の礎となる平安仏教を代表する高僧となります。ここでは最澄の思想や生涯と、空海との比較、さらに天台宗について説明します。, 最澄(767~822年)は豪族の父のもとに生まれ、12歳のときに出家します。19歳のとき比叡山にこもり自省の書である『願文(がんもん)』を著します。そこには「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」に至らなければ山を下りないという決意が書かれていました。, 六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにするという意味です。「六根」とは、視覚や味覚などのからだの感覚である五感に意識を加えた6つの感覚器官のことです。覚悟を持った比叡山での修行は12年続きました。, 797年には桓武天皇の「内供奉(ないぐぶ)」に選ばれ、また法華教の講義なども行うなど、エリートとして華々しく活躍します。「内供奉」とは、宮中の内道場に奉仕する官職のことで、全国から抜擢された高僧がその職務につきました。, そして還学生(げんがくしょう:短期留学生)に選抜された最澄は、38歳のときに遣唐使として中国に渡り、天台の教義とともに禅や密教の教えを受けます。その期間は1年間という短いものでしたが、帰国後の806年に桓武天皇より天台宗が公認され、最澄は日本の天台宗の開祖となります。, 最澄が開いた日本の天台宗の思想は「円・戒・禅・密」を総合することでした。「円」とは円満な教えのことで、中国を発祥とする本来の天台の教理を指します。「戒」は戒律のことで、最澄独自の思想です。「禅」は禅の行法で、「密」は密教の教えです。, 866年には清和天皇より伝教大師の諡号(しごう・おくりな)が贈られました。これが日本で初めて贈られた大師号でした。大師号とは、徳の高い高僧の死後、朝廷から贈られる名のことです。, 最澄が遣唐使として唐に渡った804年には、船は違いますが空海も留学生として遣唐使船に乗っていました。最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧でしたが、31歳の空海は全くの無名の若者でした。, 空海は2年という短期間に、当時の仏典を修めるために欠かせなかった梵語を習得し、密教僧として名高い恵果に学び、恵果の後継者として指名されるなど完璧に密教をマスターして帰国します。その時、多くの経典や曼荼羅、法具なども持ち帰りました。, その一方で最澄は1年間と決められていた期間の中、おもに天台の教えを中心に学びました。禅や密教も学びましたが、とくに密教については十分に学ぶ時間がとれませんでした。, ところが帰国すると、当時、新しい仏教として注目されていた密教の呪術能力が求められることとなり、最澄は年下のライバルであった空海に身を低くして教えを乞うことになります。しかし、最澄が派遣した弟子が空海の弟子となって戻らなかったり、経典の貸し借りに関する意見の相違などによって二人の関係は途切れてしまいます。, 二人の関係が切れてから、最澄は晩年まで論争にあけくれることになりました。徳一という人物との教理の解釈をめぐる論争です。その論争の決着はつかないまま、最澄は満身創痍で生涯を閉じました。, その一方で空海は高野山や東大寺に道場を開き、東寺も与えられるなど精力的に真言密教の「真言宗」を広げてゆきました。交流が途絶えてからの二人の歩みは対照的なものでした。, 二人の没後における最澄の「天台宗」と空海の「真言宗」の発展の様相には、また違った対照をみることになります。真言宗においては、空海があまりに偉大で完璧であったためか、後継者に恵まれず、その教義も空海以上に深められることはありませんでした。しかし天台宗においては、最澄が果たせなかった密教の教義を完成させるため、弟子たちが習得にまい進し、教理を飛躍的に発展させます。, また最澄の弟子の円仁は、密教のあとに日本の仏教界を席巻する浄土念仏も取り入れるなどして天台宗を発展させ、比叡山は仏教の総合センターとなって繁栄してゆきました。, 最後に最澄が成立させた日本の天台宗について説明します。天台宗は日本仏教の原点とされています。, 天台の教学は隋の智顗(ちぎ)が6世紀に確立したもので、『法華経(ほけきょう)』の教義を中心とします。法華経の教えは誰もが悟りを得ることができるという「一乗思想」の立場を取りますが、悟りを得られない人もいるとして、そのレベルによって教えを分けるべきだとする「三乗思想」の法相宗と論争を繰り広げました。前に説明した徳一は法相宗の立場でした。, 最澄の天台宗は、中国の天台宗をそのまま伝えたのではなく、先に説明した「円・戒・禅・密」を統合した、「四宗合一(ししゅうごういつ)」または「四種相乗(ししゅそうじょう)」という思想が基本です。, そして天台宗の修行の特徴は「止観」にあります。心を静めて本来の静寂な状態に安定させることが「止」で、「止」によって安定した心で対象を観察することが「観」です。「止観」は、「止」という禅定だけでなく、「観」という智慧も重視するところを特徴とする瞑想法です。, 「天台本覚思想(てんだいほんがくしそう)」は「本覚思想」ともいわれます。「本覚」とは、「本来の覚性」を意味し、一切の衆生には本来、仏性(悟りの智慧)を備えていることを意味します。この思想を表す言葉「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ」は、人間のみならず草木や国土にも仏性があるとします。, この思想はインド仏教にはなく、中国を起源として日本で特に発展した仏教思想であり、時代を経るごとに他の教理と結び付けられ、新たな解釈を生んでゆきます。すなわち浄土教などの、人間は本来、仏であるのだから修行する必要も戒律も必要なく、念仏を唱えるだけでよいというような独自の解釈です。, 天台宗の本山寺院である比叡山・延暦寺は平安仏教の中心地となり栄えました。その後、延暦寺は多くの名僧を輩出します。日本天台宗の基礎を固めた円仁、浄土宗の開祖である法然、浄土真宗の開祖である親鸞、曹洞宗の開祖である道元、日蓮宗の開祖である日蓮など、鎌倉新仏教の開祖や、日本仏教史で重要な功績を残した多くの僧が比叡山で修行しました。, 最澄は天台の教義を中国から持ち帰り、さらに独自の思想や禅、密教などを総合させた日本の「天台宗」を成立させました。予想外だった密教の求めに応じきることができず、年下の空海に教えを乞うなど、密教における勝敗はついていましたが、その後の「天台宗」と「真言宗」の発展においては、その勝敗は逆転してゆきました。そのような二人のドラマとともに平安仏教は発展し、こののちの鎌倉新仏教が展開する礎となったのです。.