皆さまがよくご存じのデジタルカメラ。カメラとしての「写す」という仕組み自体は、実に100年ほど前から変わりがありません。『小さな箱の片面につけたレンズから入った光を箱の反対面に像を結ばせ、シャッター速度や絞りで光の量を調整し撮像素子に像を当てる』というシンプルなもの。仕組み自体は不変的でありながらも、カメラそのものは決して古い道具ではなく、最先端技術を結集させたガジェットとして、いつの時代でも受け入れられ愛され続けてきました。, 広島は、京阪神エリアと福岡商圏のほぼ中間地点というビジネスに有利なロケーションだけでなく、瀬戸内工業地域を構成する工業都市としての一面があります。このため全国展開する企業においては、西日本エリアの市場戦略上、広島は重要なキーになる都市だと捉え、営業所や支店を多く設置する傾向にあります。, 「もちろん、これまでの経済中枢都市としての広島は大事です。しかし社会経済情勢が厳しさを増している中、長期的な視点に立った都市づくりも考えていかなければいけません」と、広島市都市整備局広島駅周辺地区整備担当は話します。, それに対して政令都市の表玄関とも言えるJR広島駅周辺はどうでしょう。もともと駅周辺は、広島の台所として市民に愛されてきた小さな店が軒を連ねた『愛友(あいゆう)市場』が広がっていました。この広島駅地区Cブロック再開発組合で理事長を務める川崎雅博さんは「建物の老朽化や店主の高齢化などで愛友市場の営業継続が厳しくなってきたのです。市場の継続も含めてなんとかしたいという市民の思いから、民間活力による再開発を進めました」「商業施設だけでなく、住居、温浴施設を備えたスポーツ施設、医療施設など、暮らしたくなる街づくりをお手伝いしています」と夢を膨らませます。, 広島市都市整備局広島駅周辺地区整備担当によると「駅を中心に、新幹線口の医療や事務所、大型商業施設、南口の商業、住居エリア、さらにスタジアムが一体となります」「紙屋町・八丁堀地区と駅周地区とが互いに刺激しあう"楕円形の都心づくり"をすすめています」。また駅周辺に完成予定の高層住宅には「大阪や東京、福岡でリタイアを迎えた広島出身の方にも暮らしていただきたい」と、Iターン、Uターンによる都市部人口減少の歯止めになる可能性も高いと話します。, 空港の従業員のシャツから衣料品店、文具店、雑貨屋、果物店、居酒屋から何まで。赤が目立つ街でした。広島のイメージカラーは燃える「赤」という印象でしょうか。取材日は広島三大祭りの一つ「とうかさん大祭」。市中の提灯の「赤」も街に映えていました。祭りのせいか活気あふれる若者たちと、街の燃える赤を見ていると、次世代の広島像がイキイキと逞しく育っていくように思えました。 編集部ライター・渡部恒雄, エリア特集 #22 都市機能をバージョンアップ 活気に満ちたビジネスエリアに 静岡市, エリア特集 #16 さいたま市随一のビジネスエリアでキーステーション さいたま市大宮区. 『サンモール』など建て替えへ! 紙屋町再開発準備組合が発足 【悲報】広島市の再開発がヤバすぎてマジでドン引き。 ... 82 【犬】 2018/11/20(火) 18:15:20.33 id: ... 岡山スレ立てた時と同じように広島スレでポジればなんj民が叩いてくれるやろの精神やで . 広場を作るにも超高層を作るにも、周辺の建物の協力は不可欠です。 以前も書きましたが、「紙屋町版アリスガーデン」を作ることが回遊性を高めることに繋がるのではないでしょうか。, 今後、地権者との交渉が進むと思われますが、 この計画はどうなったんでしょうか?鯉党さんわかりますか?早く情報が欲しいものですね!, 東京などであるSOHOマンションがいいですね。 :広島製菓専門学校のお知らせ&トピックス, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=サンモール&oldid=77877299. オフィスやホテルの需要を取り込み求心力の維持に努めてほしいですね。, 折角地域一番を目指した超高層ビルを建設するならば、芸術鑑賞ホールとか屋上庭園&展望所とか紙屋町付近に無いモノを作って欲しいものです。それから渋谷で建設予定のビルの様に屋上全体を使って屋上外展望設備を作って一般開放がいいな。, ナポさん、またっく同感です。 八丁堀地区も紙屋町地区に後れを取らないように、流川地区を巻き込んで今から再開発に取り組んで欲しい。, 商業ビル、オンリーとかホテルのみ、とかでは採算が取れないんでしょ。だから高層階にマンションが入ってくる, コメントありがとうございます。 広島備後地区も再開発が活発になった。 福山駅前キャスパ、尾道駅舎、三原駅前ビル、 そして、尾道バイパスと三原バイパスを結ぶ木原バイパスなどがある。 83 名前: 名無しなんじゃ 投稿日: 2019/03/02(土) 13:48:06 ID:pezC9wSg [ KD121111016031.ppp-bb.dion.ne.jp ] 地元優先で開発しています」Bブロック再開発組合理事長の前岡眞仁さんの言葉からも、広島駅地区の再開発に対する期待度が大きいことがうかがえます。 広島駅地区の再開発プロジェクトは、広島市民が見守る中、着々と進んでいました。 丸亀町のようにガラス張りの屋根を設けてもいいですね。 夏には事業協力者に大和ハウス工業と子会社のフジタ、そして三菱地所レジデンスが事業協力者に決まり、 再開発準備組合から、「正式に」一帯再開発の構想が発表され思い描く規模などが明らかになってきました!, 再開発ビルの規模は地上50階程度。専門店が集まる商業施設は低層階に入り、 1: 2018/10/19(金) 12:12:27.97 ID:klm+haKJ0 【広島駅&周辺】 ・広島駅ビル建て替え 2024年完成予定 ・南口ペデストリアンデッキ 2024年完成予定 ・南口広島東郵便局建て替え 20階 120m級? 2023年竣工予定 ・北口二葉の里再開発ビル 91m 20階 2019年3月竣工 ・北口 その南北に建物が建つイメージ。 私はもっと人が滞留する空間があってもいいのでは無いかと思います。 商業施設と超高層マンションなどに再開発する構想が表に出てきていました。, 去る、12月14日、 20以上の地権者との交渉を2018年度までに行い2019年度に本組合設立。2020年度に着工し、2024年度の完成を見込んでいます。, 再開発組合が正式発表し、いよいよこれから本格的に進み出すことになりそうです。 2016年 12月13日、「紙屋町2丁目2番地区市街地再開発準備組合」が再開発計画を発表。サンモールの建て替えと共に、周囲に店舗や事務所等の入る複合施設を建設する。 多忙のせいで大きなニュースをスルーしたままになっていたので、まとめて更新していきます!, 今年明らかになった巨大プロジェクトの一つに、広島の中枢である紙屋町地区の一帯再開発のニュースがあります。 それ以外の部分はマンション、ホテル、テナントオフィス、駐車場といった用途になります。 驚くべき情報が舞い込んできました。 生活もできるし、個人的なお店や事務所としての看板もドアやメールボックスに出せれば利便性も高まる。. 新たな再開発計画. 店舗、事務所、住宅などの機能を持つ施設の整備を目指す, 今年の4月に書いた、紙屋町2丁目(サンモール周辺)の再開発について。 今のエディオンの駐車場のあたりから、真っ直ぐ鯉城通りの方に抜けられる広場を兼ねたストリートを設けて Copyright © 2020 AND BUILD HIROSHIMA. 7月9日、中国新聞から続報がありました。, 広島銀行本店 建て替えプロジェクト 2020.10(Vol.23) 離れて見るビルの姿, 広島銀行本店 建て替えプロジェクト 2020.10(Vol.22) ガラス面積増大!外観は完成に近い状態に, 東広島・安芸バイパス『海田高架橋』 整備状況 2020.10(Vol.4) 橋桁架設進む!海田西接続部も着手, 広島駅南口再整備・駅ビル建替工事 2020.11(Vol.19) コインロッカーの移設など, いただいたコメントは管理人が承認しますので、表示されるまでお時間をいただく場合がございます。. サンモール(SUNMALL)は、広島県広島市中区紙屋町にある、主に若者向けのショッピングモール・ファッションビルである。また、サンモールを経営している株式会社サンモールの社名である。, 地元密着型の都心型ショッピングセンター[5]。開店時には、人の流れを八丁堀から紙屋町に大きく変える原動力になった[6]。若者向けのイメージがあるが[7]、2階のユニクロはユニセックス系[7]、3・4階にはカルチャー的(オタク系)な店舗を配している[7]。, 1948年(昭和23年)3月に出来た『広極商店街』(ひろごくしょうてんがい)を前身としている[8]。被爆者や引き揚げ者を中心とした新興商店街で[9]、当時はT字型の商店街だった[10]。再開発で1972年(昭和47年)10月に現在の建物になった[8]。開館当初は『広極商店街』に出店していた店舗が多く出店、1986年3月に時代に合わせて若者向けショッピングモールに変化した[1]。, サンモール開業当初の核テナントはいづみサンモール店で[11]、1980年(昭和55年)6月のブランド変更で[12]イズミサンモール店になり、1986年(昭和61年)の業態変更までは半分のフロアをイズミが占めていた[13]。2013年(平成25年)12月1日以降は、地下フロアに食品スーパーのゆめマートサンモールが営業している[14]。, 第二次世界大戦の終戦直後に、有志が本通り四・五丁目復興会を設立[16]。元広末興業より600坪(約1983 m2)の土地と映画の興行権を買い取り[16]、商店街を設置することを計画[16]。1947年(昭和22年)5月に初の本建築の建物が完成[16]。1948年(昭和23年)3月に、現在のサンモールにつながる『広極商店街』が誕生[8]。京都の京極にあやかる形で命名された[17]。1954年(昭和29年)3月に協同組合に移行[18]。1954年(昭和29年)5月時点で、49店舗を数えていた[19]。当時の地名は、塩屋町だった[19]。当時の商店街には、ストリップやピンク映画などを行っていた『広栄座』などもあった[17]。1963年(昭和38年)に発行された商店街連合会の紹介ページに広極商店街は『センスのある商店とうまいもの横町的な食べ物の街』と紹介され[18]、近隣に公官庁などを抱える立地条件より、やり方次第では伸びる余地有りともしていた[18]。また、旧西警察署跡地[補足 1]を商店街が使えるように働きかけも行っていた[18]。, サンモールになる前の広極商店街は、福屋本店(現・八丁堀本店)や天満屋広島店(後に八丁堀店に改名し2013年に閉店)、復興してきた他店舗などの影響を受け[8]、さらには広極商店街時代の老朽化による集客力低下もあり[9]、伸び悩んでいた[8][9]。現状を打破し[8]、スーパーや百貨店に自ら対抗するべく[8]自らの手による再開発ビルを模索し[8]、1966年(昭和41年)1月に広極ビル株式会社を設立[8]。『サンモール・ヒロシマ』構想を発表[8]。1967年(昭和42年)10月に防災建築街区の指定を取得[8]。1968年(昭和43年)1月に『ヒロゴク・ショッピング・センター』の建築計画がまとまり発表された[20]。当時の計画では15億円を掛け、食品・衣料品の他に、ボウリング場・映画館・劇場などを備えたビルを計画していた[20]。1968年(昭和43年)時点で、1969年(昭和44年)10月に一次工事完成、1972年(昭和47年)までに全工事を完成させる予定にしていた[20]。, 1968年(昭和43年)9月に仮店舗を着工[9]。同年12月に、旧西警察署跡地[補足 1]に仮店舗が開店した[22]。, しかし、土地への愛着や、事業費などの負担割合などから調整に手間取り[8]、1969年(昭和44年)1月に内部対立が表面化[23]。広島市に斡旋を訴える事態になり[23]、そのことで広島市が建築許可を保留する事態になった[24]。その後、計画変更を行い、1969年(昭和44年)4月22日に建築許可が認められ[24]、同年5月1日に起工した[24]。, 1969年(昭和44年)10月30日に、広極ビル側よりいづみと共同建築計画を結ぶ方針であることを発表[25]。2階から3階のフロアを取得し、8億円を負担すると発表した[25]。いづみとの正式契約は1971年(昭和46年)3月に行われ[26]、地下1階地上5階建て(一部7階建)の建物を建築[26]。総工費24億円の内いづみが13億5000万円負担してキーテナントになることが決定[26]。その後、1971年(昭和46年)8月に着工にこぎ着けた[27]。, 1972年(昭和47年)7月には出店テナントがほぼ決定し、権利者店舗を含む地元から38店、広島県外から70店出店することになった[28]。また、いづみは建物の半分のフロアを占めることになった[13](6,215 m2[11])。, 28億円の事業費を掛け[8]、1972年(昭和47年)10月5日にサンモールは開店した[3]。開店時に当時の社長が年商100億円を目標に掲げた[6]。再開発商業ビルの建設は多くの注目を集めた[17]。, 開店時には、1階にエレクトーンなどの演奏が出来るステージがある噴水広場[6]。4階には400人収容できるサテライトスタジオを整備した[6]。, 開店当日は、陸上自衛隊によるパレードが本通りで行われた[11]。サンモールのオープンで、オープン直後はオープン前の3倍から4倍の通行者数になった[8]。また、1973年(昭和48年)3月に開店した広島県初のミスタードーナツは、開店時に800人の行列が出来た[29]。, しかし1973年(昭和48年)頃は、広島バスセンターの一時移転、福屋本店や天満屋広島店の改装オープンおよび三越広島店の新規開店で、一時的に業績は伸び悩んでいたが[8]、当店や前年に開店したユニード広島店。さらに、その後建築された広島センタービルやハイライフプラザ第一産業本店など、紙屋町地区が八丁堀地区に匹敵する商業地区に発展することになった[30]。, 1973年(昭和48年)頃には、東側電車通りに第二ビル構想が存在し、さらなる面積拡大が実現していた可能性もある[8]。, 1977年(昭和52年)10月には、名称の定着を理由に運営会社の社名もサンモールに改めた[31]。, 1983年(昭和58年)12月に改装計画を決定[32]。10億円を投じて[32]、フロア構成の明確化[32]、若者向けの店舗構成への転換[32]など打ち出した。当初は1985年(昭和60年)3月完成予定にしていた[32]。, 1985年(昭和60年)10月に詳細計画がまとまり、テナントを新たに20店舗から30店舗増加[33]。イズミ部分は検討中とした[33]。1986年(昭和61年)1月にイズミ部分について、食品売場については単身・OL向けに少量化[34]。各階の衣料品売り場の客層の明確化[34]。5階を賃貸スペース化[34]。イズミのファッションビルの実験店に位置づけることが決定した[34][補足 2]。これらの改装で、イズミの量販機能と専門店が分散していた形を、インショップ化した[36]。1階にはメッセージギャラリー[37]、5階中央部には、コミュニケーション広場を整備した[37]。『してぃーばざぁーる』のキャッチコピーも付けられている[38]。, 改装費15億円をかけ[37]、1986年(昭和61年)3月14日に新装オープン[37]。初年度の売り上げ目標は120億円に設定した[37]。また、同年に別館のキャラクト館を建設した[39]。, 2003年(平成15年)6月に、広島FM(HFM)のYYYスタジオが5階に設置された[40]。2013年(平成25年)には、紙屋町ブルーベリー園を整備した[40]。, 一時期の売り上げが年間50億円程度に落ち込んだ年もあったが[7]、2005年(平成17年)および2007年(平成19年)の改装以降は、年間売り上げ60億円に回復している[7], 2016年12月13日、「紙屋町2丁目2番地区市街地再開発準備組合」が再開発計画を発表。サンモールの建て替えと共に、周囲に店舗や事務所等の入る複合施設を建設する。完成は2024年度を見込んでいる[41]。現店舗は2017年2月3日に公表された広島県の耐震性能調査において、震度6強以上で「倒壊または崩壊する危険性が高い」と危険性が指摘されていた[42]。, 1フロア以上を占めるテナントは、開店当初からの核テナントであるイズミが運営するゆめマートサンモールおよび、2階のユニクロがある。1階にあるミスタードーナツは広島初出店の店舗で[29]、イズミがフランチャイズを取得して運営している[44]。, 1999年(平成11年)から2009年(平成21年)までHMVが2階に出店しており[45]、一時撤退していたが2014年に旧マルタカ跡地に再進出した。また、2011年(平成23年)から2014年(平成26年)頃まで、住吉屋の本店所在地にもなっていた[46][47][48]。, エディオン広島本店本館(建替完了後に東館に名称変更)の建て替え工事中、1階に一部売り場が移転して営業していた。, 創業40周年記念事業および屋上緑化の一環として[49]、屋上の従業員用スペースを利用し、日本初の都市型ビル屋上のブルーベリー園紙屋町ブルーベリー園を2012年(平成24年)11月より整備を開始[40][50]。2013年(平成25年)6月29日に開園した[51]。広報大使「つみとり娘」として、広島を中心に活動するMMJのサブリーダーでもある歌手の渕上里奈を迎えた[52]。イメージソングの歌詞、衣装デザインは公募され、歌詞の最優秀作が採用されたイメージソング「あなたに届けたい」のCDが7月3日にリリースされた[53]。2014年(平成26年)も行われる予定。, スージー甘金がデザイン、イワモトケンチがCM制作した、スタンとチビスタンがマスコットキャラクター。両者は2007年(平成19年)より担当している[54]。スタンは2007年(平成19年)夏より[55]、チビスタンは2010年(平成22年)夏より[56]使われている。公式ホームページ上では2人の4コマ漫画も連載されている[57]。, 『エレキの演奏もにぎやかに 「サンモール」オープン 主婦らでいっぱい 目玉商品求め駆け込む』 - 中国新聞 1972年10月5日 夕刊 6ページ, 『巻き返す商店街12 広島・サンモール 環境激変で試練の場 吸引力増大へ拡張作戦』 - 中国新聞 1973年6月25日 6ページ, 『「広極ビル」着工へ 広島初の総合ショッピングセンター まず仮店舗の起工式』 - 中国新聞 1968年9月3日 4ページ, 『「サンモール」あすオープン 注目の広極再開発』 - 中国新聞 1972年10月4日 6ページ, 『ヒロゴク・ショッピング・センター 建設計画決まる 15億円投じ近代ビル 市街地再開発のお手本に』 - 中国新聞 1968年1月16日 9ページ, 『西署跡に仮店舗完成し移転 広極ビル工事の仮店舗』 - 中国新聞 1968年12月4日 9ページ, 『"街ぐるみ再開発"に暗雲 紙屋町の広極ビル建設 内部対立が表面化 広島市にあっせん訴え』 - 中国新聞 1969年1月14日 8ページ, 『広極ビルの起工式 紙屋町の再開発の第一歩』 - 中国新聞 1969年5月2日 9ページ, 『スーパー「いづみ」 広極ビル内に進出 建築資金の一部を負担』 - 中国新聞 1969年10月31日 5ページ, 『やっと軌道にのる ひろごくショッピングセンター 来年六月オープン 「いづみ」を軸に』 - 中国新聞 1912年3月17日 9ページ, 『広極再開発 やっと軌道に 9月オープンへ 社長に吉田氏 新体制でスタート』 - 中国新聞 1972年4月15日 6ページ, 『東京チャームなど七十店 「サンモール」への出店』 - 中国新聞 1972年7月6日 8ページ, 『立ち食いに800人の列 ミスタードーナツ 広島店がオープン』 - 中国新聞 1973年3月9日 7ページ, 『第一産業が新ビル 完成は50年春 量販店街の核に 「ハイライフプラザ」』 - 中国新聞 1973年6月25日 6ページ, 『広極ビル社長に浜岡氏返り咲き 名称も「サンモール」に』 - 中国新聞 1977年6月21日 6ページ, 『サンモール、都心型に改装 60年3月オープン予定 広島』 - 中国新聞 1983年12月13日 6ページ, 『サンモール全面改装へ ヤングの店目指す 来年3月オープン』 - 中国新聞 1985年10月16日 6ページ, 『ファッション型に転換 広島・呉・福山 イズミが改装』 - 中国新聞 1986年1月21日 6ページ, 『サンモール あす新装オープン ヤング向きの都市型市場に』 - 中国新聞 1986年3月13日 6ページ, 『サンモール隣にファッションビル イズミ』 - 中国新聞 1986年4月19日 6ページ, MIKIO YAMAMOTO|TOPICS|サンモール「紙屋町ブルーベリー園」&「LIVE ON RADIO」10周年!, http://www.nikkei.com/article/DGXLZO10611880T11C16A2LC0000/‬, 紙屋町ブルーベリー祭のプレイベントに参加しました!