菅野智之(実働8年〜) そして令和の大エースになれるかという原巨人のエースです。2018年は2010年前田健太以来の投手3冠も獲得しました。 184登板、182先発、36完投、19完封、94勝、47敗. 3(一)黒木知宏. プロ野球は例年3月末からペナントレースが開幕します。1年間で143試合が予定で組まれています。開幕戦はその143試合の1試合に違いありませんが、良いイメージでスタートを切れるのか、切れないのかではチームの意識が変わってきます。 ですからほとんどのチームがエース級の投手を準備し勝利をかけて戦うのが開幕戦です。ですから、各チームの投手陣は開幕投手を任されることを目指しています。 開幕投手に選ばれた投手は自分がエース投手としてさらに自覚を持つことで、例え開幕戦で成果が出 … ベースボール・マガジン社『週刊ベースボール』2018年10月1日号 pp.112-113. WBCでの個人成績は3先発、0勝0敗、14回1/3を投げ、6失点(自責点5)、防御率3.14、16奪三振で、奪三振数は千賀と共に大会最多タイだった[97]。シーズンではこれまで3年連続で開幕投手を務めていたが、首脳陣が菅野のWBC出場での疲労を考慮し、3月31日の対中日戦(東京ドーム)の開幕投手はマイルズ・マイコラスが務めた。4月4日の対横浜DeNA戦(横浜スタジアム)で7回1失点7奪三振でシーズン初勝利した[98]。 4月18日の対ヤクルト戦(熊本)でシーズン初完封勝利(5奪三振)を挙げると、4月25日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)でも完封勝利(7奪三振)し、さらに5月2日の対横浜DeNA戦(東京ドーム)でも完封勝利(9奪三振)し自身初の3試合連続完封勝利を達成。リーグでは1989年に斎藤雅樹が達成して以来、28年ぶりの記録であった[99]。5月23日の対阪神戦(甲子園)では7回無失点6奪三振で勝利投手になり自身通算50勝目に到達した[100]。5月の成績は5試合に先発し37回を投げ3勝2敗、防御率2.68、31奪三振、1完封で月間MVPを受賞した[101]。交流戦では3試合に先発し1勝1敗、20回を投げ14失点(自責点12)、防御率5.40、1完投の成績だった[102]。チームは交流戦10位で終えた。オールスターも2年連続でファン投票1位に選ばれ、5年連続5度目の出場を果たし、第2戦目の先発で2回無失点3奪三振だった[103]。7月22日の対横浜DeNA戦(横浜スタジアム)で8回無失点10奪三振で2年ぶり4度目の2桁勝利となる10勝目を挙げた[104]。7月は4試合に先発し29回を投げ4勝無敗、防御率0.31、30奪三振で月間MVPを受賞[105]。8月19日の対横浜DeNA戦(東京ドーム)で7回2/3を投げ1失点8奪三振で勝利投手になり5年連続5度目の規定投球回に到達した[106]。9月8日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で9回1失点(自責点0)8奪三振の完投勝利を挙げ、自身初のシーズン15勝に到達した[107]。 9月16日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で7回2/3を投げ1失点8奪三振で勝利投手になり2年連続2度目の規定投球回に到達した[58]。10月2日の対ヤクルト戦(神宮)で右肘靭帯損傷をしてしまい2回無失点1奪三振で降板した(チームは勝利)[59]。これが最終登板になり成績は158回2/3を投げ、12勝5敗、勝率.706、防御率2.33、122奪三振、3完投で平成生まれ初の最優秀防御率のタイトルを獲得し、自身2度目となるチームのリーグ優勝に大きく貢献したが、怪我の影響でポストシーズン(ファイナルステージの対阪神戦(東京ドーム))の登板は叶わなかった[60]。その結果、自身の不在は大きく響き、チームはCS史上初の4連敗をし、アドバンテージを含めた1勝4敗で敗退した。それでもリーグ優勝に貢献したことが評価され、平成生まれ初の最優秀選手を受賞。さらに投手部門での平成生まれ初のベストナインを受賞し、阿部慎之助と共に自身初の最優秀バッテリー賞も受賞した[61]。その後怪我の影響もあり11月の日米野球の代表にも選ばれなかった。契約更改で4000万円増の年俸1億1000万円でサインした[62]。, 2015年、3月28日の対横浜DeNA戦(東京ドーム)で2年連続2度目の開幕投手を務め、7回1失点5奪三振でシーズン初勝利を挙げた。また去年までバッテリーを組んでいた阿部慎之助が怪我の影響で一塁手にコンバートされた為、小林誠司とバッテリーを組んだ[63]。5月19日の対阪神戦(甲子園)で入団3年目にしてレギュラーシーズンでの自身プロ初完封勝利(3奪三振)を記録した。5月26日の対埼玉西武ライオンズ戦(郡山)で9回1失点(自責点0)9奪三振で完投勝利を挙げるが[64]、5月31日に首痛のため登録抹消した。6月10日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で復帰し、7回3失点4奪三振の好投するも敗戦投手になった[65][66]。 5月4日の対広島戦(東京ドーム)で、2回裏に中崎翔太から自身のプロ初安打、初打点を記録し、試合も6回2/3を投げ2失点7奪三振で勝利投手になった[38]。 野球の面白さや魅力を伝えるべく、私、つれボーに加えて複数の野球仲間と共に楽しく記事を執筆しています。 6月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフオクドーム)で、9回1失点11奪三振で自身プロ初完投勝利した[39]。自身初のセ・パ交流戦の成績は5試合に先発し2勝1敗、39回1/3を投げ10失点(自責点9)、防御率2.06、37奪三振、1完投だった[40]。チームは交流戦3位で終えた。オールスターゲームには監督推薦で初出場し、第2戦目に先発して2回1失点1奪三振だった[41]。8月11日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で7回1失点5奪三振で自身初の2桁勝利となる10勝目を挙げた。巨人の新人で2桁勝利は澤村拓一以来となる球団史上11人目となった[42]。9月1日の対中日戦(東京ドーム)で9回2失点(自責点1)5奪三振で勝利投手になれなかったが(チームも引き分け)、自身初の規定投球回に到達した[43]。リーグ優勝がかかった9月22日の対広島戦(東京ドーム)では、8回1失点7奪三振の好投で、勝利投手になり、自身初となるチームのリーグ優勝を決めた[44]。10月8日のシーズン最終戦の対ヤクルト戦(東京ドーム)で5回裏からプロ入り初のリリーフ登板し4回無失点6奪三振の好投した(チームはサヨナラ勝利)[45]。 データはデータスタジアム(株)により独自に収集されたものです。データは公式記録とは異なる場合があります。, 提供している情報は電子的または機械的な方法をを問わず、いかなる目的であれ無断で複製または転送・販売等を行うことを固く禁じます。, クライマックスも「いつもと違う」…4試合制で行われる決戦のルールを改めておさらい!, DeNAが10選手に戦力外通告…昨季47試合出場の中川大、海外帰りの変則左腕・中後ら, ももクロと西武が12月にイベント開催 本拠地エリアのグランドオープンへカウントダウン, 巨人・坂本、プレッシャー吐露も「あの雰囲気は一生忘れない」本拠地最終戦で2000安打達成, ファンが選ぶ「年間最優秀バッテリー賞」が決定!偉大な記録を塗り替えた左腕と三冠右腕のバッテリーが受賞, DeNA・佐野恵太が背番号を「7」に変更 過去の名打者と同じ「首位打者」から「7」, 小さな大魔神が帰還! 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