2杯目は、1杯目よりも少し熱く、量を半分くらいにして出しました。 1597年 – 98年 慶長の役 秀吉の死. ※続きは【次のページへ】をclick!. 安土桃山時代には、戦国武将達が活躍しましたが、彼らは普段どういう服装で過ごしていたのでしょうか。安土桃山時代における服装は、室町時代に比べて、礼装がより簡素になり、南蛮(主にヨーロッパや東南アジア、スペイン、ポルトガル)からもたらされた新しいファッションが取り入れられるなど、武士達の服装が大きく変化し、鉄砲や槍といった新兵器の登場と共に、戦闘時に着用する甲冑(鎧兜)も進化しました。そんな安土桃山時代の服装について、時代背景も交えながらご紹介します。, 安土桃山時代になると、織田信長や豊臣秀吉の政策によって寺院勢力が抑えられ、ポルトガル人やスペイン人など南蛮人との貿易が盛んになったことにより「南蛮文化」が融合し、多彩な文化へと発展していきます。一方で、千利休によって「わび茶」が大成された他、「囲碁」や「浄瑠璃」などといった娯楽も発展し、新興大名や京都、大阪、堺、博多の豪商らが、文化の担い手となりました。 関ヶ原の戦いでの島津義弘陣跡, さて、関ヶ原の戦い後、島津家は徳川家康より所領を安堵される。西軍として戦い、退却時には、徳川四天王の井伊直政を負傷させ、なんなら松平忠吉にも重傷を負わせていた。それでも、島津家の石高は減らずに現状維持。これは、西軍についた武将のほとんどが所領を減らされていることからすれば、例外的な措置といえよう。, 島津義弘の家臣団は、非常に忠義に厚い。自分の身を投じてまで必死に義弘を逃がした長寿院盛淳や甥の島津豊久らからわかるように、その結束力は抜きんでている。これは、義弘自身が、日頃から家臣に対して、同じ一人の人間として接していたからであろう。朝鮮出兵の際に、あまりの寒さに他の陣営では凍死する兵が続出する中、島津軍からは一切出なかったのも有名な逸話だ。部屋の中に囲炉裏を作り、上下関係なく全員が暖を取っていたからだとか。同じ粥をすすり、決して家臣だけに苦労させることはなかった。だからこそ、島津義弘が85歳でこの世を去る際には、殉死することを固く禁じられても、13名もの家臣が追腹(おいばら)をした。死してまで主君に尽くす「義」は、他ではなかなか見られない。, 義弘は、どちらかというと、カリスマ的なリーダーというよりは、人間味ある魅力を兼ね備えた武将であった。これは、義弘が京都から宰相夫人に送った手紙の一節を抜粋したものだ。, 「猶々今夜もそなたを夢にまさしくミまいらせ候て、たゝいまけんさん候やうにこそ候つれ」 豊臣秀頼が西軍に加わらなかったため 島津義弘, そんな状況の島津家に、新たな火種が起こる。関ヶ原の戦いが起こる一年前、ちょうど情勢を見極める大事な時期に、島津家では「庄内の乱」が勃発。「庄内の乱」とは、義弘の子である忠恒(ただつね、のちの家久)が、伏見の屋敷で重臣を斬り殺したという事件である。この時には、既に忠恒(家久)が島津家の家督を継いでいたこともあり、島津家が大いに揺れた。結果的に、殺された重臣の子が籠城するなど、のちに乱となり、鎮圧に時間を要すことになる。その折に徳川家康は、必要であれば援軍を派遣するとの書状を送って、島津家援助の意向を見せていた。, かような事情もあって、「庄内の乱」を鎮圧したのち、慶長5年(1600年)4月、御礼のために義弘は徳川家康を訪問している。このときに家康は、食事をしながら、上杉景勝が上洛しなければ出陣することを告げたという。そして、義弘には伏見城の留守番を命じた。もはや、完全に島津義弘は東軍側であった。義弘自身も、この命を受けて兵を送るようにと、国元に再三再四要請している。伏見城を守り切れなければ「島津家の手落ち」ともなると考えたのだ。実際に、東軍での戦いに向けて準備していたのだ。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、東軍の大津城を攻めています。しかし関ケ原での西軍の敗報が伝わると、大阪城へと退却、総大将の毛利秀元に籠城戦を進言したとされています。 しかし、これが聞き入れられなかったことから、領地の柳川へと戻ります。 徳川家康像, 一方、島津家はというと、これまで九州で勢力を拡大してきた名門の一族。豊臣秀吉の九州討伐の折に服従はしたが、結果的に九州南部の薩摩、大隅、日向(鹿児島県、宮崎県)の領地は認められた。加えて、代々続いてきた「名家」のプライドがある。この誇りが、現実を直視させずに曇らせた。島津家の長男で家督を継いだ義久(義弘の兄)を筆頭に、家臣の中には島津軍が服従することに納得していない節があったのだ。未だに秀吉への遺恨もあり、島津家は、中央からの要請に対しことごとく非協力的であった。これは、京都にいてその強大な権力を目の前で見せつけられた義弘とは真逆の方向だ。その温度差は非常に大きかったといえる。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 http://www.kanko-sekigahara.jp/event/sasaoyama/. 関ヶ原の戦いが行われた開戦地, ただ、私としては、もっとシンプルな、義弘個人の本能的なものではないかと思う。ただ、武士としての名誉のため。島津家の誇りのため。そんな気がしてならない。正直、あの混乱の中を、さすがの島津義弘も逃げ切れるとは思っていなかったのではないだろうか。討死も覚悟していたが、家臣に生き延びることを説得され、退却を決断。しかし、万が一、後方への退却の途中で討ち取られれば、それこそ九州の国元、代々続く「島津家」の誇りを汚してしまう。逃げ切るにしろ、討ち取られるにしろ「我が島津軍はなにものも恐れず、正面切って前進する」。これまでの武将としての生き方が、そう決断させたのではないだろうか。, 島津義弘は最期まで武将だった。 関ヶ原の戦いでの島津義弘陣跡, 不本意ながらも西軍として参戦した以上、島津義弘は戦いに手を抜くことはしなかった。本来ならば守るべきはずの「伏見城」の落城に大いに貢献し、その後は三成らと共に大垣(岐阜県)へと向かう。 北の関ヶ原こと慶長出羽合戦の陣容: 上杉景勝(西軍) 直江兼続本隊2万5千、庄内方面3千: 最上義光(東軍) 総勢7千前後(山形方面は3千、庄内方面4千) 伊達政宗(東軍) 山形への援軍は3千、総大将 … 村上新悟さん演ずる直江兼続がキレッキレの「直江状」朗読をぶちかまし、歴史ファンの間で話題になりました。, 次の出番では「伊達と最上がいるからには、先に倒さねばならない」と語り合い、さらに次のシーンで上杉景勝と直江兼続の主従は意気消沈し、既に“戦い”は終わっているのでした。, 戦いとは「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦であり、残念ながら多くの作品で無視されがちな存在です。, 上杉景勝・直江兼続・伊達政宗・最上義光という名だたる大名たちが顔を揃え、まさに役者は揃った状態なのに、ワクワクしない?, 今回は、兼続主演の大河ドラマ『天地人』ですら、何故かマトモに描かれなかった慶長出羽合戦を振り返ってみたいと思います。, 直江兼続が徳川家康に送りつけた超無礼な手紙、「直江状」を機に会津征伐がスタート。このとき東北の二大巨頭である伊達政宗と最上義光は、徳川に味方しました。, 一方、西軍の石田三成は「伊達と最上の妻子を人質として確保しているから、彼らは我に味方するはずだ」との確信を持っていたのでした。, 会津・上杉領の隣に位置する最上義光は上杉攻めの主役となります。家康は他の武将たちに向かい、「最上口から攻め入る者は義光に従うように」と命じます。, 愛する娘・駒姫を豊臣秀吉に無残に殺され、家康に臣従していた最上義光は超絶気合いフルパワー。戦勝祈願の祈祷を行い、準備を整えます。, これに対し上杉家では、相手を迎え撃つため、神指城の建築を進めます。決戦の地を白河皮籠原と定め、景勝の本陣は勢至堂峠に置きました。, しかし、7月25日。肝心の家康が石田三成の挙兵を受けて軍を反転、西日本へと引き返してしまいます。, その理由として、信じられていたのが「背中を突くことは卑劣であり、上杉の義にふさわしくない」というもの。, しかしこれは、“義”の上杉を美化あるいは単純化するために作られた伝説です。現在では家康派を抑え込み、解体することが目的であったという説が有力視されています。, 伊達・最上を放置して家康を追えば、かえって東軍派にその背中を突かれるかもしれません。後顧の憂いを絶つためにも、東北の両家を攻略することは必須でした。, これが2016年の大河ドラマ『真田丸』になると、直江兼続の台詞で「伊達と最上が背後にいる状態では動けない」と説明。最新の研究が反映されたことの一例と言えるでしょう。, 伊達:「百万石のお墨付き」を与えられたのではなく、あくまで「切り取り次第で加増」とされている, まず7月29日、石田三成討伐のため徳川軍を西へ反転させたという一報が、家康から義光に届けられます。, 8月13日前後には、会津攻めのため山形に集まっていた諸大名(南部利直、秋田実季、戸沢政盛、小野寺義道、六郷政載)らが帰国してしまいました。, 要は、大軍で上杉を潰す予定だったのが一転して、攻める側から攻められる側に逆転してしまったのです。, 石高でいうと、最上は24万石で上杉は120万石ですからマトモにぶつかれば、とても敵う相手じゃありません。更には庄内地方の小野寺義道も上杉に呼応する動きを見せ、どうにもならなくなってしまいました。, 家康からは「会津に油断しないように」という連絡が届けられますが、「いやいや、もうどうにもならんでしょ!」状態。, 結果、義光は、嫡子の義康を人質に送ってまで、上杉家に臣従する動きを見せた、という説すらあります。まぁ、ここまで追い詰められた状況ならば、たとえポーズでも、そういう動きを見せなければならなかったのは無理のないところでしょう。, そして9月3日、上杉家は最上攻めを決定。総大将・直江兼続として、酒田方面からは志田義秀が侵攻を開始しました。, 防衛拠点となる城に兵力を集中させ、あとは撤退させる作戦です。最上領内の多くの城は、豊臣秀吉による破却命令を受けて破壊されており、防衛拠点には到底ならない状態だったのです。, 最上:最上義光が上杉に臣従していたという書状は、偽書説がある。ただし、状況からみて時間稼ぎのために臣従を装ったとしても不自然ではない, 小野寺:当初は東軍だったが、状況が変わると「宿敵・最上を討つチャンス」と西軍側についた, 江口光清ら五百名が籠もる城は、13日には陥落。畑谷城に関しては、江口光清が義光の撤退命令を無視して籠城したという説が有力でした。, しかし現在では、防御力を高め、援軍を派遣し防衛拠点とする予定だったものの、敵の進軍が早すぎて失敗したのではないかとされております。, 地元の伝承では「十三夜の餅は、早ぐ食え」という言葉が残されていたとされます。このとき、周辺の領民が十三夜のために餅をついておいたのですが、上杉勢が来ると聞いてあわてて逃げ出し、食べ損なったことを示しております。, またこの地方では、子供が泣くと「カゲカツくっぞ」と脅していたとか。上杉勢が襲って来た恐怖が語り継がれていたのです。, 長谷堂城と山形城の距離はおよそ8キロ。最終防衛ラインです。ここを落とされると、もう後がないのです。, 古くは永正5年(1508年)、伊達稙宗が最上領に侵攻し、長谷堂城を陥落させた際に、当時の当主・最上義定は実質的に敗北した状態にまで追い込まれました。, この城は、規模はさほど大きくないものの、周囲を深田に囲まれ、須川の流れが天然の堀となって行く手を阻みます。城へと通じる道は険しく、守りの堅い城でした。, 山形城から鮭延秀綱らの増援が駆けつけるとはいえ、心もとない状態でした。 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 「今夜もまた、お前を夢に見たよ。まさに今、この場で出会ったようだった」(和訳), 追伸として、宰相夫人に素直な心情を吐露する姿は「あの戦国最強の島津軍団の大将」と同一人物とは思えない。ちなみに、この手紙は義弘が57歳のとき。あえて何度もいうが50代後半の男の手紙である。長年連れ添った夫婦のやりとりでは、「言わずとも、分かっておろう」的な暗黙知で済ませることが多い。それを、包み隠さず正直に表現する島津義弘は、自分の気持ちを臆することなく、自然と相手に伝えることのできる稀有な人間なのだろう。家臣が必死で義弘を守るために、九州から駆け出した気持ちもわからなくはない。