之は甚ひどい進退維谷ジレンマだ。実際的プラクチカルと理想的アイディアルとの衝突だ。で、そのジレンマを頭で解く事は出来ぬが、併し一方生活上の必要は益迫って来るので、よんどころなくも『浮雲』を作こしらえて金を取らなきゃならんこととなった。で、自分の理想からいえば、不埒な不埒な人間となって、銭を取りは取ったが、どうも自分ながら情ない、愛想の尽きた下らない人間だと熟々つくづく自覚する。そこで苦悶の極、自おのずから放った声が、くたばって仕舞しめえ(二葉亭四迷)! 卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】, 特派員としてロシアへ赴任するも、肺結核を患い、日本へ帰還する際にベンガル湾上で亡くなる. 『浮雲』(うきぐも)は、二葉亭四迷の長編小説。角書「新編」。第1編1887年6月20日、第2編1888年2月13日、金港堂刊行。第3編は『都の花』1890年7月から8月まで連載。合本、1891年9月。 前回のレビューで「浮雲」の講釈を垂れさせていただきましたが、何度も申しますようにこの作品はすごかった。そりゃーもう、すごかった。, いやお前、すごいすごいって一体何がすごいのさ? と、そうお思いのことでございましょう。ということで、引き続き「浮雲」について講釈垂れさせていただきます。, この作品のあらすじは前回のレビューをご覧いただくこととして、本書を読んで坪内逍遥がおったまげ、白旗を揚げたその理由について考えてみましょう。, 二葉亭四迷は本書を書く前に、ある雑誌に「小説総論」というエッセイを書いています。このエッセイは逍遥の「小説神髄」を踏まえたうえで四迷自身の小説観を表現したものなのですが、こんな文章で始まるのです。, 「凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、孰れを重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上よりいわば意こそ大切なれ。意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、厳敷しくいわば形の意にはあらで意の形をいう可きなり。」, つまり、小説には形(フォーム)と意(アイデア)があると。形というのは、たとえば文体のことであり、表現方法のことでしょう。一方で意とは物語のテーマのようなものを言うのだと思うのですね。, で、四迷は「大事なのは形より意だ」と言っているのです。では意(アイデア)とは一体なんでしょう。, 実はこの意の問題こそ、逍遥が「小説神髄」で語らなかったことだったのです。「小説を道徳から解放するべきだ」とは言うものの、そうやって描くべきものはなにか、ということについては逍遥は何も語らなかった。, だからこそ「当世書生気質」においても、逍遥は確かに書生の様子を緻密に描写して見せたけれども、意地悪な言い方をすれば、ただ描写しただけでその奥には何もなかった。(このことは後に森鴎外が逍遥を厳しく批判して論争となるのですが、今日はその話ではありません), しかし四迷が描いて見せたこの「浮雲」は、むしろ最初に意(アイデア)があってこそ生まれた小説だったのです。, 空に浮かんでいる雲はふわふわとあてどなく彷徨っているように見えます。雲をつなぎとめるもの、確信できるものがどこにもないということを表しているのです。, 主人公の文三は学校を卒業したいわゆるインテリなのだけれども、ところが彼の自負する「学問」は、現実の社会生活においては実用性を持たないという事実。たとえ学問をしても、自分は社会の浮雲でしかないという現実。実はそういう本音と建前の狭間を描くことこそ「文学としての小説」であり、「勧善懲悪小説からの脱却」だと、四迷はこの作品において宣言したのです。, そしてそれこそが「当世書生気質」にはなくて、西洋の名作と言われる小説には必ずあるものなのですね。坪内逍遥、まずこの時点でおったまげた。, さらに、逍遥の「当世書生気質」よりも四迷の「浮雲」の方がより西洋小説に近かった理由がもう一つありました。それは、本書「浮雲」を読めば、読者は主人公である文三と自分自身を一体化させることができる、ということ。, 本書で作者が描こうとしたものは文三という若者の苦悩や煩悶です。本書を読んだとき、逍遥は気づいたに違いありません。読んでいるうちに、まるで自分が文三と同じ気持ちになっていることに。, これもまた、逍遥が一年前に上梓した「当世書生気質」ではなしえなかったことなのでした。, 逍遥は一年前、「当世書生気質」を「これぞ西洋風小説!」というつもりで書いたのでしょう。しかし、あの作品を読んで小山田に共感したり、彼の身に起こったことをまるで自分のことのように感じる読者はいなかったのです。「当世書生気質」を読んでも、読者は自分が書生になった気持ちにはならないのでございます。, しかし本書「浮雲」を読めば、読者の誰もがまるで自分が文三になったように苦悩し、煩悶するでしょう。自分が「浮雲」のような不安定さ、不安感を感じるのです。そして逍遥が耽溺した西洋小説の面白さというものは、まさにそこにあった。, 小説の面白さとは、読んでいるうちにまるで自分がラスコーリニコフのような気分になって怯えたり苦悩したりしてしまうこと、ウェルテルの悲恋をさも自分の身に起こったことのように感じてしまうこと、グレゴール・ザムザの気持ちに共感してしまって「ああ、もし明日の朝、目が覚めたら虫になってたらどうしよう」とつい思い悩んでしまうこと、そうではありませんか?, 本書「浮雲」は日本の小説で初めて、そういう西洋小説と同じ読み心地を読者に与えることに成功した小説だったのでした。, そしてそれこそが逍遥が「小説神髄」で提唱した、「人情を描くこと」に他ならなかったのでございます。これもまた、逍遥が自ら提唱しながらなしえなかったことだったのです。, アイデアが大事だということも、読者が小説の登場人物に感情移入するように書くということも、今では「え? 小説ってそういうもんでしょ?」って誰もが思うでしょうが、当時は二葉亭四迷による本書によって初めてみんなが「あ、そういうことだったんだ」と気づいたのです。, ということで、そりゃあ坪内逍遥、自分の書いていた「続当世書生気質」なんて引っ込めますよ。「当世書生気質」は西洋風小説です、なんて、恥ずかしくて言えませんよ。, いやはやこんなものがですよ、「当世書生気質」から僅か一年で出るなんて、明治の日本人、恐るべしでございますねえ。, alicetearabbitさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 二葉亭四迷の用語解説 - [生]文久4(1864).2.3/28. 本記事では、日本文学の名作50点を紹介します。絶対に読んでおきたい古典作品から、現代文学の作品まで、日本文学史を概観で... 「小説家を目指しています」ということになっているけれども、実際は毎日の仕事に追われ、小説を書くため... 『若い藝術家の肖像』(A Portrait of the Artist as a Young Ma... 本記事ではブラウザゲーム『文豪とアルケミスト』の「有碍書「い」~「ち」の段」に登場した文学作品・作... 『風流仏ふうりゅうぶつ』は明治時代の小説家幸田露伴こうだろはんの小説。明治二十二年刊行。 © 2020 レキシル(Rekisiru) All rights reserved. 作家名: 二葉亭 四迷: 作家名読み: ふたばてい しめい: ローマ字表記: Futabatei, Shimei: 生年: 1864-04-04: 没年: 1909-05-10 月初めの日曜日、まだ所々に一昨日の雪が残っている冬晴れの中、四谷の二葉亭四迷旧蹟を訪ねた。旧蹟と言っても説明版が残っているだけとのことで見つけられるかがまずは焦点であった。, 四ツ谷駅を降り立ち、四谷見附の交差点を渡り、予め地図で確認していた横丁を入る。電信柱に四谷一丁目, 番地に辿りついた。インターネットで確認していたマンションが見えた。その玄関辺りに説明版があるかと探したがない。少々焦る。仕方なく少し行くとマンションの建物の隙間に小さな説明版を見つけ、安堵の胸を下ろした。説明版によると二葉亭四迷が明治, 年間、東京外国語学校ロシア語科に入学し寄宿舎に入るまで過ごしたところで、彼の父の実家である水野邸が建っていたとし、彼の経歴が簡単に記されていた。それによると, の中に生まれ、少年期に政治色の濃いロシア文学の影響を受け、東京外国が学校ロシア語科に入学するが後に中退し、坪内逍遥の指導で創作を始める。明治, 年、日本で最初の言文一致体文章の小説「浮雲」を発表し、さらに「あひびき」「めぐりあい」などのロシア文学を翻訳するなど、日本の近代文学の先駆けとなったとあった。, そのままさらに進んでいくと公園があった。四谷見附公園である。中央に冬枯れの大木が聳え立っていたがプラタナスの大木とのことであった。また、字がかすれている説明文を何とか読んでみると、「江戸時代に市ヶ谷見附、牛込見附、四谷見附という城門があり、ここは四谷見附に由来し、, 年長州藩主毛利長門守秀就に命じられて築城された。近くの麹町は国府路に由来し、国府路とは、武蔵国の国府, 年、皇太子の渡欧に際して一般公開された。」道路を挟んで前には若葉東公園があった。公園を抜けると目の前に学習院初等科が門を閉ざしていた。, そして、若葉東公園の前には迎賓館の広大かつ絢爛たる庭園と建物が下写真に示す陽に照り輝く囲いの中に見え隠れしていた。, その囲いに添って右に曲がると紀国坂に差し掛かった。小泉八雲の「怪談」の「狢」の冒頭にこの坂が登場することは有名である。真昼間の晴天の日、そんな恐ろしい怪談の面影は微塵もなかった。, 迎賓館は和風迎賓館に続き、どこで終っているのか分からないまま進んでいくと紀国坂を降り切ったところに九郎九坂と弾正坂があり、どうも由緒ある坂らしい。調べてみると九郎九坂, は、江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいう。また、弾正坂は、西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられたとのこと。この両坂はここで交わりまた坂の上の青山通りで豊川稲荷別院を挟んで交わっていた。, 豊川稲荷はさすがに立派で大勢の参拝客で賑わっていた。丁度昼食時だったので、境内内の蕎麦屋で暖かい卵とじ蕎麦を頼んだ。しかし、蕎麦は全腰がなく味も何かぼんやりしていてかなり不満だった。まあ、こういうところでは仕方が無いかもしれない。, 青山通りを渋谷の方に向かい、青山一丁目の交差点で右に折れ、東宮御所から信濃町近くを通り、迎賓館と赤坂記念館の間の本日最後の名のある坂、安珍坂, を下って無事四谷見附公園に戻ってきた。安鎮坂の名は、かつて坂の前にあった安藤左兵ヱの屋敷内に安鎮大権現の社があったことに由来し、後に安珍坂と書くようになったものである, 。別名の権田原坂は付近に屋敷のあった権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説ある。この地は昔、, ・権田隼人なる者の屋敷地だったとも、あるいは権田丈之助、権田小三郎とその組下の組屋敷だったともいわれるとのこと。. 本... 本記事では、小説家・村上春樹の短編小説集を紹介します(全13冊)。 『中国行きのスロウ・ボート』 リンク 青春の追憶と内なる魂の旅を描く表題作ほか6篇。著者初の短篇集。 引用:Amazon「内容紹介」 1983. 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