つれづれベースボール。 2020 All Rights Reserved. Thank you for everything! 管理人のつれボーです。 Hank Aaron did it with class. 世界のホームラン王、王貞治さんが40歳で引退して11月4日で丸40年となる。突出した記録を次々と打ち立て、今もなお多くの日本プロ野球記録を持ち続ける王さん。40年間、多くの名選手が近づくことす … ")」と揶揄されたりもした[90]。, 一方で、選手たちの反応はおおむね正反対である。2007年5月にUSAトゥデイ紙が493人の現役大リーガーと469人のファンを対象に行ったアンケート調査の「史上最も偉大なホームラン打者は誰か」という項目において、ファンの回答で最も多かったのがハンク・アーロンの36%、次いでベーブ・ルースの33%、ボンズは8%にしか過ぎなかった。だが現役選手の72%がボンズと回答している。, これらコメントに代表されるように、選手たちの間では“ステロイドを使ったからといって簡単にホームランを打てるわけではない”とボンズを擁護する意見が多い[81]。そもそも、ステロイドの使用を開始した1999年より前の時点でボンズは既に殿堂入りに値する成績を残しており、元々ずば抜けた実力を持っていた選手であることにも留意すべきである[78]。, また、2007年シーズンにおいても当時メッツのギレルモ・モタが禁止薬物での50試合の出場停止処分を受けているように投手の禁止薬物使用も相当数に上っていることや、ボンズが薬物を摂取していたとされる2000年前後はまだ筋肉増強剤はMLBの禁止薬物に指定されてはおらず、使用の是非とは別にボンズをはじめとしたMLBの選手たちは、その当時、筋肉増強剤を使用することにルール上は何も問題はなかったこともまた見逃せない事実である[81]。, 薬物使用が確実視される中での記録達成とあって、周囲の反応が注目されたが、アーロンの記録を破った試合の視聴率はわずか1.1%と、NFLのプレシーズンゲームにも惨敗する有様で、大多数のファンは無関心、あるいは冷淡な視線で見ていた事実を裏付ける結果となった。ちなみに、ハンク・アーロンがベーブルースの記録を破ったときにNBCが放送した試合の視聴率は、22.3%だった。, コミッショナーのバド・セリグも球界の最高権力者という立場上、明言はしていないがアーロン同様その場にいたくないとの気持ちは隠しようがないといった感じで対応に戸惑っていた。言葉では「記録更新の瞬間にできる限り立ち会うつもりでいる」「試合への尊敬、記録の大きさ、この国ではすべての市民が有罪とされるまでは潔白であることから、私は彼が記録を更新する可能性があるかを見るために次の試合に立ち会う。記録がタイになった時点で追加声明を発表する」との声明文を発表していたが、否定的なスタンスを取り続けていた。755号を放った試合もセリグは観戦していたが、他の観客と違い拍手もせずポケットに手を突っ込んだままの姿で、神妙な面持ちだった。756号を放った試合においては結局セリグはジョージ・J・ミッチェルと面会するという名目で球場には姿を見せず、代理を送っていた。, また、この疑惑が強くなる中、他の選手の記録の正当性にも疑惑が示され、実はシーズン本塁打記録はロジャー・マリスの61本のままではないかという議論も起きた。2005年にはノースダコタ州議会がメジャーリーグ機構にマリスの記録が正当であると主張する事態となった。, 引退後5シーズンが経過し、2013年にアメリカ野球殿堂入り資格を得た。しかし、ステロイド使用が確定しているボンズに対して、殿堂入りを認めるかどうかの議論が投票前から盛んに行われた。ロジャー・クレメンス、サミー・ソーサといった薬物使用者も同時に殿堂入り資格を得たため、「“ステロイド時代”をどう評価するか」という個人の問題に留まらない重要な論争となった。2012年12月にAP通信が投票有資格者100人以上に対して行った事前調査では、殿堂入りを認めると回答した記者は45%に留まり、殿堂入りに必要な75%には届かなかった(クレメンスには43%、ソーサには18%が殿堂入りを認めると回答)。ニューヨーク・タイムズも同様の調査を行い、43%がボンズとクレメンスの殿堂入りを認めると回答した(ソーサは12%)。これにより初年度の殿堂入りは絶望的な状況となった。反対派の中にも今後考えが変わる可能性はあると回答した記者も多く、論争の決着が付いたとは言えない状況である[91]。, 2013年1月9日、殿堂入りの投票結果が発表されたが、事前の調査よりも少ない36.2%しか獲得できず、殿堂入りを逃した(クレメンスは37.6%、ソーサは12.5%)[92]。, 殿堂入りを認める主張としては「ドーピングを始める前から、長期に渡って素晴らしい成績を残していた」「当時はステロイドが禁止されておらず、ドーピングが蔓延しており、誰が白で誰が黒かを明確に特定することは不可能」「既に殿堂入りした選手や、殿堂入り候補の選手の中にも、発覚していないだけで薬物を使用していた選手は確実に存在する」「純粋に数字だけで判断すべき」「野球殿堂は負の歴史も受け入れるべき」などがある[91][93]。, 一方で、殿堂入り反対派は「どのような事情があろうとも、薬物使用が判明した選手の殿堂入りは認めるべきでない」という主張を展開している[91][93]。また、全米野球記者協会が設けた殿堂入りの選考基準「記録、能力、誠実さ、スポーツマンシップ、人格、チームへの貢献(the player's record, playing ability, integrity, sportsmanship, character and contributions to the team[s] on which the player played)」のうち誠実さ、スポーツマンシップ、人格の3つを満たしていないと指摘される[94]。, "Clubhouse confidential," USA Today, May 24, 2006, 樋口浩一『バリー・ボンズ「唐突な爆発」。』『メジャーリーグ100年「記録」の達人。』、, "Bonds and Rookie Find Strong Link in Their Games", New York Times, July 8 2007, 『バリー・ボンズ物語』(小学館・週刊少年サンデー野球増刊SCUD/8月10日発行), “Barry Bonds: the best ever? Giants slugger will forever be compared to the greatest major league players and his numbers will rank him as the top performer of his era”, https://archive.is/20120718034835/http://findarticles.com/p/articles/mi_m0FCI/is_9_63/ai_n6154588/, Barry Bonds convicted of obstruction of justice in performance-enhancing-drugs case, 薬物疑惑のボンズとクレメンスは殿堂入り不可能? 米メディア特集「彼らはズルをした」, http://books.google.com/books?id=1VwOLIVOWvwC&pg=PA262&#v=onepage&q&f=false, 1986 National League Rookie of the Year Award, Pirates Deny Barry Bonds To Be Traded To Dodgers, 1990 National League Most Valuable Player Award, 1991 National League Most Valuable Player Award, Oct 14, 1992, Pirates at Braves Box Score and Play by Play, Sid Bream's modern-day "mad dash" wins the pennant for Atlanta, 1992 National League Most Valuable Player Award, “Sports of The Times; The Pirates Lost a Series, Not Respect”, http://www.nytimes.com/1992/10/16/sports/sports-of-the-times-the-pirates-lost-a-series-not-respect.html, “Giants Make Investment: $43 Million in Bonds”, http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CEFDD1F38F935A35751C1A964958260, “Did Giants' special treatment of Bonds contribute to messy end? それでは日本歴代ホームラン記録ランキングの上位5位までを見ていきます。 ざっと選手を見ますと、どの選手も耳にしたことのある選手ばかりがランクインされています。一番記憶に新しい選手ですと、5位の清原和博選手の通算525本塁打になりますね。 PL学園で1年生の頃から4番に座り、甲子園をわかせた選手であり飛距離、弾道は高校時代から並々ならぬものがありました。豪快という言葉がまさに似合う選手でしたね。巨人在籍時に古巣西武との日本シリーズで当時エースだった松坂大輔選手から東 … ひと振りで試合の流れを一変させ、観客をわかせることができるホームラン。まさに「野球の華」なんて呼ばれ方もしますね。そんなホームランですが、歴代ではどのような選手が沢山ホームランを打ってきたのでしょうか?, そこで今回は歴代ホームラン数記録にランキング入りしている選手についてまとめてみました。最多本塁打記録をもつ選手の紹介に加え、世界記録など日本国外のホームラン記録についても記していますので、同時に確認していきましょう。, ざっと選手を見ますと、どの選手も耳にしたことのある選手ばかりがランクインされています。一番記憶に新しい選手ですと、5位の清原和博選手の通算525本塁打になりますね。, PL学園で1年生の頃から4番に座り、甲子園をわかせた選手であり飛距離、弾道は高校時代から並々ならぬものがありました。豪快という言葉がまさに似合う選手でしたね。巨人在籍時に古巣西武との日本シリーズで当時エースだった松坂大輔選手から東京ドームの看板に直撃する特大ホームランを打ったのはとても衝撃的でした。, 清原和博の凄さがわかる名言・語録集!天才ホームランバッターの伝説エピソードから人生哲学まで, 4位には広島一筋で「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれた山本浩二選手がランクインしています。ちなみに536本塁打は大学卒業からプロに入団した選手の中では歴代最多の本数となっています。, そして3位には身長は169cmと小柄ながら日本初の40歳にして44本のホームランを放つ偉業を成し遂げた門田博光選手がランクインです。現役中にアキレス腱を断裂する大怪我をしてしまいますが、足の負担を減らすため長打狙いのバッティングに徹したことにより通算567本塁打を放ち、歴代ランキング入りの功績を成し遂げることができました。, 2位にランクインした選手は「ノムさん」こと野村克也選手になります。日本歴代で600本以上本塁打を打った選手は現時点では野村選手と1位の歴代最多本塁打を放った選手しか存在しません。通算600号のホームランを放った際のインタビューでは「自分をこれまで支えてきたのは、〇〇や長嶋がいてくれたからだと思う。」という敬意を払うコメントを残しています。, さて、実は野村選手のコメントの中にありました○○に入る選手が歴代最多本塁打を放った選手なのです。, そう、1位は「世界の王」こと、王貞治さんですね。次で詳しく王貞治さんについて見ていくことにしましょう。, 日本歴代で最も多くホームランを放った選手は王貞治選手です。野球に詳しくない方でも知っている記録かもしれませんね。, 2位の野村選手より200本以上多い868本のホームランを放っており、前人未踏の領域に達していると言えます。, そんな王選手ですが、なんと入団当時は投手として入団しているのです。このとき当時監督だった水原茂監督に「ピッチャーとしては大成しない」という烙印を押され、野手転向をしました。しかし今思えばこれがのちに最多本塁打王となる転機だったということですね。, 入団4年目に王選手のトレードマークである「一本足打法」を確立し、ホームランアーチストとしての才能を開花させます。ここから現役最後の1980年まで全てシーズン30本以上の本塁打を放ち868本という未知の領域まで本塁打を量産したというわけです。, 1964年にはシーズン55本の本塁打を放っており、歴代シーズン本塁打記録の2位にもランクインされており、まさに日本が誇るホームランバッターです。, ちなみに、日本国外ではどんな選手が最多本塁打のランキング入りをしているのでしょうか?次は世界に目を向けて見てみましょう。, 国外の選手は他にどんな選手がランキング入りしているのでしょうか?早速ですが、世界歴代本塁打ランキングのトップ3までを見てみましょう。, なんと、最多本塁打の世界記録も王貞治選手の868本塁打となっており、王選手の記録がいかに凄いことかというのが伺えてきますね。, 王選手に次いで2位にランクインしている選手は、パイレーツ、ジャイアンツで活躍したバリー・ボンズ選手です。大きな体格からコンパクトなスイングでボールをピンポン玉のようにライトスタンド上段まで運ぶ姿が今でも脳裏をよぎります。, そんなバリー・ボンズ選手のホームランは、youtube等で「バリーボンズ」「ホームラン」と検索すれば沢山でてくるので、是非見たことが無い方はチェックしてみて下さいね。, 軽く振っているように見えるのにもかかわらず簡単にスタンドインしています。ホームランバッターとしての才能があり、まさに王選手に次ぐ記録を打ち出すにふさわしい選手ですね。, 3位は755本の本塁打を放っているハンク・アーロン選手がランクイン。実はこのランキングの中では一番古い記録となっており、王選手がハンク・アーロン選手を抜いたときには球場に用意された6個のくす玉が一斉に割られ「祝・王選手756号」の垂れ幕で祝福されました。, この記録をハンク・アーロン選手自身も祝福しています。王選手の記録達成時には王選手のバッティングフォームがフラミンゴに似ていることから当時アメリカのメディアからフラミンゴ打法と呼ばれており、フラミンゴの剥製を王選手に贈呈しています。, いかがだったでしょうか?「野球の華」と呼ばれているホームランですが、果たしてこの偉大な記録を超えるような選手が現れるのでしょうか?今も日本国内外問わず物凄い打球を放つホームランバッターが数多くいますが、この歴代本塁打記録も頭の片隅に置いておくと、更に野球の観戦が楽しくなってくるかもしれませんよ。, ・日本の歴代最多本塁打は「世界の王」こと王貞治選手であり、2位の野村克也選手より200本以上多い868本のホームランを放っている。, ・世界記録も王選手が1位にランクインしており、2位にはバリー・ボンズ選手が762本でランクインしている。, ・世界3位にはハンク・アーロン選手がランクイン。王選手が自身の記録を抜いた際はフラミンゴの剥製を送り祝福している。. 野球をこよなく愛する一般人代表を自負しております。 満塁本塁打(まんるいほんるいだ)またはグランドスラム (grand slam) は、野球やソフトボールにおいて、3つ全ての塁が埋まっている満塁の場面での本塁打(ホームラン)である。従って、1つのプレーで4打点が入る。, The Dickson Baseball Dictionaryによると、「グランドスラム」という用語はコントラクトブリッジに由来する。ゴルフやテニスでも、全てのメジャー大会で優勝することをグランドスラムという。, 職業野球が始まった1936年9月23日、甲子園で名古屋軍の岩田次男が金鯱の内藤幸三から打ったのが日本プロ野球初の満塁本塁打だった[1]。, 2017年9月29日にプロ野球通算10万号本塁打が記録されたが、そのうち満塁本塁打は1リーグ時代82本、セ・リーグ1097本、パ・リーグ1108本の合計2287本[2]。, トロイ・トロージャンズのロジャー・コナーは、1881年9月10日にメジャーリーグベースボール(MLB)で初めて満塁本塁打を打った選手であると信じられている。1871年9月5日に全米プロ野球選手協会のボストン・レッドストッキングス(現在のアトランタ・ブレーブス)に所属するチャーリー・グールドが打っているが[6]、全米プロ野球選手協会はMLBであると認識されていない。, アレックス・ロドリゲスは、2013年9月20日にそれまでのルー・ゲーリッグの23本の記録を抜き、MLBの歴史上最多の24本目の満塁本塁打を放った。ドン・マッティングリーは、1987年に1シーズンで6本の記録を持っている。トラビス・ハフナーは2006年にマッティングリーの記録に並んだ。また2009年には、アルバート・プホルスは、1955年にアーニー・バンクスが記録した1シーズン5本のナショナルリーグ記録に並んだ[7]。, 1881年のコナーズの最初のものを含め、いくつかの満塁本塁打は1点差のサヨナラ本塁打であった。野球ファンの中には、これを「究極の満塁ホームラン」("ultimate grand slam")と呼ぶ者がいる[8]。ロベルト・クレメンテは、1点差のサヨナラランニング本塁打を打った唯一の選手である。これは、1956年7月25日に、外野が広いことで知られるフォーブス・フィールドで行われた試合で、ピッツバーグ・パイレーツがシカゴ・カブスを9-8で破った。, 2005年のシーズンでは5017本の本塁打のうち、2.6%の132本が満塁本塁打であった。2006年6月13日から14日にかけて、ミネソタ・ツインズはボストン・レッドソックスとの連続した2試合で満塁本塁打を放った。そのうち6月13日のものは、ジェイソン・クベルによる延長12回のサヨナラゲームとなった。, 2006年6月23日から25日にかけて、シカゴ・ホワイトソックスはヒューストン・アストロズとの連続した3試合で満塁本塁打を放った。スコット・ポドセドニックは第1試合で、生涯唯一の満塁本塁打を放った。翌日ジョー・クリーディも生涯唯一の満塁本塁打で続き、第3戦では9回裏ツーアウトから井口資仁が同点に追いつく満塁本塁打を放った(この試合8回裏には、井口はスリーランも打っている)。ホワイトソックスは、1993年にデトロイト・タイガースが達成して以来のチームとなった。一方、2007年のカンザスシティ・ロイヤルズは、4月13日と14日にボルチモア・オリオールズ、4月16日にタイガースと3試合連続で満塁本塁打を浴びた。, また2006年には、クリーブランド・インディアンスのトラビス・ハフナーは、オールスター前に5本の満塁本塁打を放った(6本目は8月13日に打った)。7月16日、ニューヨーク・メッツのカルロス・ベルトランとクリフ・フロイドは、シカゴ・カブス戦で11得点を奪った6回に満塁本塁打を放ち、MLBとしては8度目、ナショナルリーグとしては4度目の1イニング2満塁本塁打を記録した。, MLB初打席で満塁本塁打を放った選手は、これまでに4人いる。1898年のビル・ダグリビー、2005年のジェレミー・ハーミダ、2006年のケビン・クーズマノフ、2010年のダニエル・ナバである。クーズマノフ、ナバ、ダグリビーは、初球であった。また、ハーミダは代打であった。, アトランタ・ブレーブスのトニー・クロニンガーは、1966年のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で、1試合に2度の満塁本塁打を放った。これは、投手としては唯一の記録である。, シアトル・マリナーズのフェリックス・ヘルナンデスは、2008年6月23日のニューヨーク・メッツ戦でエースのヨハン・サンタナから、1973年に指名打者制が施行されて以降、アメリカンリーグで投手として初めて満塁本塁打を放った[9]。, 1イニングに2本の満塁本塁打を放った唯一の選手は、セントルイス・カージナルスのフェルナンド・タティスで、1999年4月23日にドジャー・スタジアムで、ロサンゼルス・ドジャースの朴賛浩から、3イニング目に打った。1試合に2本の満塁本塁打も、クロニンガーに続いてナショナルリーグで2度目であった。朴は、1イニングに2本の満塁本塁打を打たれた2人目の大リーガーとなった。1人目はピッツバーグ・パイレーツのビル・フィリップスで、1890年8月16日にトム・バーンズとマラカイ・キットリッジに打たれた。同じ打者から打たれたのは、朴が初めてである。タティースは、これが初めての満塁本塁打であった。ボストン・レッドソックスのビル・ミラーは、2003年7月29日のテキサス・レンジャーズ戦で、史上唯一、1試合に左右両打席での満塁本塁打を放った。ニューヨーク・メッツのロビン・ベンチュラは1999年5月20日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で、史上唯一、ダブルヘッダーの両試合で満塁本塁打を放った。, 2011年8月25日のオークランド・アスレチックス戦で、ニューヨーク・ヤンキースは史上初めて1試合に3本の満塁本塁打を記録した。ロビンソン・カノ、ラッセル・マーティン、カーティス・グランダーソンの3人で、3本とも異なるイニングに記録された。7-1のビハインドから、2本目の満塁本塁打で逆転し、最終的には22-9で勝利した[10][11]。, マイナーリーグでは、チームによる1試合3本の満塁本塁打が達成されている。1991年5月16日にAAA級カルガリー・キャノンズがタコマ・タイガースを相手に決めた。デイブ・コクレーン、チャック・ジャクソン、アロンゾ・パウエルの3人で、試合も22-7で大勝した[14][15]。, 【8月24日】1939年(昭14) フィリピン出身の強打者、リベラ 巨人軍史上初の満塁本塁打, http://www.baseball-almanac.com/recbooks/rb_grsl.shtml, http://sportsillustrated.cnn.com/baseball/news/2002/05/17/ultimate_grand_slams, “Notebook - Grand slam by Felix Hernandez is one for the books”, http://seattletimes.nwsource.com/html/mariners/2008013961_marinotes24.html, “On a Long and Wet Day, the Yankees Win in Grand Style”, http://www.nytimes.com/2011/08/26/sports/baseball/yankees-win-in-grand-style-on-a-long-and-wet-day.html, “Yankees slam Athletics in grand fashion”, http://www.reuters.com/article/2011/08/26/us-baseball-yankees-slams-idUSTRE77P0FX20110826, “Yankees hit 3 grand slams to beat A's 22-9”, http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2011/08/25/SPQQ1KRV9D.DTL, http://espn.go.com/new-york/mlb/story/_/id/6896894/new-york-yankees-set-record-grand-day-bronx, Alonzo Powell - BR Bullpen - Baseball-Reference.com, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=満塁本塁打&oldid=80122648. 野球の面白さや魅力を伝えるべく、私、つれボーに加えて複数の野球仲間と共に楽しく記事を執筆しています。 How did you do it? 630本(1989~2010年) 8位 ジム・トーミ 612本(1991~2012年) 9位 サミー・ソーサ 609本(1989~2007年) 10位 フランク・ロビンソン 586本(1956~1976年) ※2019年度シーズン終了時点での記録です。, トップはバレンティンの60本ですが、長年トップだった王貞治さんの55本をついに破ったという感じでした。, 1位 ウラディミール・バレンティン 60本(2013年)130試合 2位 王貞治 55本(1964年)140試合 2位 タフィ・ローズ 55本(2001年)140試合 2位 アレックス・カブレラ 55本(2002年)128試合 5位 ランディ・バース 54本(1985年)126試合 6位 野村克也 52本(1963年)150試合 6位 落合博満 52本(1985年)130試合 8位 小鶴誠 51本(1950年)130試合 8位 王貞治 51本(1973年)130試合 8位 タフィ・ローズ 51本(2003年)138試合, メジャーではバリー・ボンズの73本がトップですが、その他の顔ぶれを見ると同じ名前が何度も登場しているのが特徴です。, 1位 バリー・ボンズ 73本(2001年) 2位 マーク・マグワイア 70本(1998年) 3位 サミー・ソーサ 66本(1998年) 4位 マーク・マグワイア 65本(1999年) 5位 サミー・ソーサ 64本(2001年) 6位 サミー・ソーサ 63本(1999年) 7位 ロジャー・マリス 61本(1961年) 8位 ベーブ・ルース 60本(1927年) 9位 ベーブ・ルース 59本(1921年) 9位 ジャンカルロ・スタントン 59本(2017年), さて、ホームランの世界記録は日米で数字も違い、それぞれ特徴があることはわかりました。, 日本の野球のレベルアップはだれもが認めることですが、それでも日本<メジャーリーグと認識されています。, ホームランとヒットという違いはありますが、イチローが安打の世界最多記録を達成してもそれまで最多安打記録保持者だったピート・ローズは日本での記録を含めた記録を決して認めようとはしません。, 王貞治さんもメジャー・リーガーと直接対決したわけでもなければ、当時の日本の球場は今と比べてかなり狭かったという事実もあります。, しかしながら日米同一のフィールドでプレイしていない以上、これはどうしようもありません。, 逆に、日本に来た外国人選手が通算ホームラン記録でトップ10に入った選手はひとりもいません。, 数字より価値という意味では、多くのメジャー・リーガーが「サダハル・オー」へのリスペクトを口にしています。, 「サダハル・オー」の名前・記録はもちろんのこと、バッティングの極意を聞きたいという声もあります。, ホームランの世界記録は日本とメジャーでは条件は違っても、王貞治さんへのリスペクトを見ても価値が違うということはないと思います。, 今回は、野球のホームランの世界記録ランキングと日本とメジャーでは価値が違うのかなどを見てきました。, 野球のホームランの世界記録ランキングは、通算記録は日本の王貞治さんの868本、シーズン記録はバリー・ボンズの73本、日本国内ではバレンティンの60本です。, 日米の野球のレベルは、日本<メジャーリーグと認識され条件は違いますが、王貞治さんへのリスペクトを見てもホームランの世界記録に価値が違うということはないでしょう。, ただ、日本国内では最近はピッチャーにいい人材が多く、特にホームランバッターは少なくなった印象があるので今後の奮起を期待したいところです。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. (父さん... ありがとう、すべてに感謝している)」と締めくくった[77]。, 2000年代以降に体格が突然巨大化したこと、30歳代後半の年齢でパフォーマンスが一気に向上した(年間45本塁打以上した過去6シーズンのうち、5回は35歳以降で記録しており、本塁打率(打数÷本塁打数)も1998年まで16.2であったのが1999年から2007年までは9.2と急上昇している)ことなどから、筋肉増強剤のアナボリックステロイドやヒト成長ホルモン(HGH)等の運動能力向上薬物を使用しているとの噂が絶えなかった。, シーズン73本塁打の新記録を作った2001年の時点では、薬物の問題は表面化していなかったが、ボンズの体格が劇的に変化したことは当時からマスコミでも度々取り上げられていた。プロ入り当時は体重84キロで、98年までは86キロと、体格に大きな変化はなかった。それがドーピングを始めたと噂される99年から毎年増加し、93キロ・95キロ・103キロと増えつづけ、そして2007年のMLB公式サイトの掲載においては109キロにまでなっている。, ボンズが薬物に手をだすきっかけとなったのは、1998年のマグワイアとソーサの本塁打量産対決であるというのが通説である。1998年、従来の記録であったロジャー・マリスのシーズン61本塁打を大きく超えるハイレベルな二人の争いに全米中が熱狂した。その一方でこの年に打率.303・本塁打37・打点122・盗塁28という成績を残し、史上初の「400本塁打‐400盗塁」を達成していたボンズはこの二人の影に完全に隠れてしまった。人一倍プライドの高いボンズは、「このままでは一番でいられない、ホームランを打たないと誰からも注目してもらえない」と今までのスピードを捨てて本塁打を打つためのパワーを手に入れようとした、というのである。1998年のオフ、友人のケン・グリフィー・ジュニアと食事をした際に、ボンズはそのように語り、ステロイドの使用を開始したことを示唆したとグリフィーが証言している[78]。, こうして、このあと数々の記録を打ち立てることになる凄まじい打棒と引き換えに「疑惑」はどんどん強くなっていくのである。, 最初にそれを公衆の面前に晒したのは1999年の春季キャンプでのことで、前年のシーズン終了時とは見るからに違う体格をしていたボンズに対して地元記者が質問すると、「いつもと同じことをしただけだが、やり始めたのが少し早かった」とだけ答えている。投与に関ったとされるのは米国の栄養補助食品会社バルコ(BALCO: Bay Area Laboratory Co-operative)で、ボンズは1998年半ばから幼馴染のグレッグ・アンダーソンをウエイトトレーニング・コーチとして雇い入れていた。当時すでにアンダーソンは後に告発されるバルコ社の創設者ビクター・コンテと深いつながりを持っており、陸上競技などでは禁止されていた化学薬品をボンズに与えていたという[79][80][81] 。, 2006年3月23日にサンフランシスコ・クロニクル紙記者2人によるボンズの薬物使用に関する暴露本『ゲーム・オブ・シャドウズ』が出版された。同著では、ボンズは1999年から少なくとも5年以上にわたり、クリア(THG)、クリーム(クリアとセットで使用)、HGH、ウィンストロール、デカ・デュラボリン、インスリン、デカン酸テストステロン、トレンボロン、クロミッド、ノルボレトンと様々な薬物を使い続けたと述べられている。2007年1月11日、ボンズが2006年度の検査で禁止薬物のアンフェタミン(グリーニー)に陽性反応を示していたことが報道された[82]。, 2003年にバルコ社の禁止薬物の販売に関する大陪審で禁止薬物を故意に使用したことはないという証言について、アメリカ連邦大陪審は2007年11月15日に偽証罪で起訴した。ボンズと同様にバルコ社からドーピング投与を受けた疑惑をもたれていた女子陸上競技選手マリオン・ジョーンズもドーピングしていたことを既に認めており、金メダルを返還して引退している。なお偽証罪の直接の訴因は「薬物を使用したこと」ではなく、「薬物を使用したにもかかわらず嘘の証言をした」ことである[3][4]。同年12月13日に発表されたミッチェル報告書に実名で取り上げられた。ボンズは報告書作成時の調査に関連した聴取を拒否した事に加え、禁止薬物の使用の疑いについて書かれた質問に対する応答を拒否したとされている[83]。, ボンズの裁判は2011年3月21日から始まった。サンフランシスコ連邦地裁の陪審は2011年4月13日、訴えられた罪状4件のうち、司法妨害罪1件のみ有罪とする評決を下し、他の3件の偽証罪は陪審不一致で裁判不成立となった。薬物使用が意図的なものだったかどうかは明らかにならなかった[84]。元専属トレーナーのアンダーソンは黙秘を貫き、ボンズが「そうと知って使ったことはない」と証言したので、その容疑を立証しなければならなくなり、困難を極めた[85]。裁判中に証言した1994年から2003年にかけて交際していた女性によると、1999年の肘の故障はステロイドの使用を開始したことによる急激な筋肉増強が肘に負担を与えたことが原因だと語ったという[86]。2011年12月15日に2年間の保護観察処分と30日間の自宅謹慎が言い渡された[87]。また、4000ドル(約30万円)の罰金も科された[88]。2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した[89]。, 薬物疑惑が強まり、ルース、アーロンの通算本塁打数に迫るにつれて、ファンや米メディアの反応も厳しくなり、敵地の球場では、別扱いの参考記録を表す「*」マークやドーピング注射器が描かれたボードを掲げてボンズを野次る観客が多数出現するようになった。ボンズの守っているレフトに注射器が投げ込まれたこともある。「ベーブ・ルースはホットドッグとビールでやってのけた。ハンク・アーロンは上品にやってのけた。(暗に薬物を指して)お前はどうやってやったんだ?("Babe Ruth did it on hot dogs and beer.