映画 「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」 2015年 デンマーク. 2020/04/01, 学業で触れる機会や、メディアで散見されるなど、今もなお関心を抱く人が多い事柄です。, そこで今回は、ナチスやヒトラーについての学びが得られる映画をピックアップして紹介していきたいと思います。, 全部見るのは中々難しい話ですので、とりあえず今回ピックアップした映画をいくつか見ていただければ、ヒトラー・ナチスに関する史実を掴めてくるはず。, ヒトラーが現代にタイムスリップし、「ヒトラーのそっくりさん」として人気芸人になるという、あらすじを聞いただけではコメディかと思うような作品。, 現代において当たり前に発達しているインターネットの力により、ヒトラーの言動が電波に乗ると、大衆の心がどんどんと動かされていくのです。, インターネットによる情報革命は、プロパガンダをより行いやすい状況になっているというのを、まざまざと感じるところ。, そして作中では、市民へのインタビューが登場するのですが、なんと演技ではなく実際に街行く市民にインタビューしているのです。, 最初は面白おかしく見ていたはずが、後半になるほど笑えない内容になってくるので、食い入るように見入ってしまうはず。, タイトル通り、ヒトラーが自殺に至るまでの12日間を描いた内容であり、存命であるヒトラーの元秘書の回想に基づいているため、再現度も非常に高いです。, ほぼ負けが決まってるかのような、追い詰められた状況下でストーリーが始まるのもあり、繁栄を誇ったナチスというより、終焉の様が克明に把握できます。, またタブーとされてきたヒトラーの人物像に迫ったのが特筆すべき点であり、他の映画とは一線を画すものであるのは確か。, 映画の終盤の止まらない死の連鎖は、見ていて非常に重たくなるものですが、『憎悪・狂乱・悲しみ・破滅』に溢れた地下壕の空気を如実に捉えています。, ホロコーストにおいて指揮的な役割を担った、ナチス最重要戦犯アドルフ・アイヒマン逮捕の影の功労者である、検事『フリッツ・バウワー』を描いた伝記映画。, 先の2作品とは異なり、ナチス崩壊後を捉えた内容でありますが、ヒトラー死してもなお、余韻が根強く残っていたことがよく分かります。, 徹底的な正義を追い求めるバウワーの姿勢には胸を打たれるものがあり、ナチス残党の妨害にさらされながらも、実を結ぶ様が克明に映し出されるのが感服。, ドイツにおける「過去の克服」の取り組みを振り返る上では重要な作品と言えるでしょう。, 平凡な家具職人が何故ヒトラー暗殺を企てたのか、逮捕された彼の運命といった顛末が映し出された内容。, 多くの人々がヒトラーの危険性に気付く以前に、彼の狂気に気付き、行動に移したエルザーですが、監督は英雄としてではなく、一労働者として扱っている点に着目したいところ。, 原作者の実体験を元に脚色したストーリーとなっていますが、全部実話なんだろうか?と思うほどの完璧な内容。, 画廊を経営するユダヤ人が主人公で、ミケランジェロの絵を巡り、混乱に巻き込まれていく様が描かれています。, 創作が入っているため史実とはかけ離れている部分もあるにせよ、作中で登場するような不当な扱いが横行していたのは容易に想像できるところ。, 戦争系では珍しく女性が主人公で、創作ということもあり、潜入・裏切りなどなど、常にハラハラさせられる要素が詰まっています。, 色んな角度からナチス時代のドイツを見ていくと、より全体像が明確に見えてきますね。 2019/06/10 ★ハリウッドでも活躍! 改めてこの時代は恐ろしかったと感じるところ。, 第二次世界大戦中、ナチスに占拠されたベラルーシで、ユダヤ人を救出し、民衆による非正規軍として戦い抜いた集団を指揮した、実在の3兄弟を描いた伝記映画。, 原作は小説ですが、映画化にあたり物語が脚色されている部分もあるものの、基本的には史実に沿っています。, 物語は彼らの生き抜く様が懇々と描かれる内容であり、歴史に対する学びがよく得られましたが、少し冗長には感じたところ。, ヒトラー・ナチス関係の映画は、ドイツを舞台にしたものが多いので、本作のように他国で抵抗した人々を描いた作品は貴重。, 第二次世界大戦中に解読不可能と言われたドイツの暗号エニグマを解いた、イギリスの天才科学者『アラン・チューリング』を描いた作品。, ここまで紹介した映画とは異なり、ナチス側ではなく対立していた側が主軸である内容です。, 「人口知能の父」とも呼ばれ、現代のコンピューターの基礎を作ったと言っても過言では無いほどの偉人であるにも関わらず、解読は極秘扱いとされ、正当な評価を受けないまま悲痛な運命を辿った様が映し出されます。, 主演のカンバーバッチの熱演も素晴らしく、ナチスへの興味関心を抜きにしても、一度は見ておきたい名作。, チューリング以外の暗号解読者へも焦点を当てており、『イミテーション・ゲーム』では細かく説明されなかった部分についても理解できるためオススメです。, ド文系で数学の素養の無い僕でも理解できるほど、かみ砕いて説明してくれてるのがありがたかったところ。, 第二次世界大戦下にイギリス首相に就任した、『ウィンストン・チャーチル』を主人公とした物語。, 内容としては葛藤しながらも前進するチャーチルが描かれるといったところであり、個人的にはチャーチルが熱弁してたら終わった感が否めません。, 既にチャーチル好きであるとか、戦争への知見が深い、といった状態だったら、また感じ方が違ったのかも知れませんが、僕は少し物足りなさを感じたところ。, とはいえ、チャーチルという人物を知る入口としては、最適な映画だと思うところであり、勉強になるのは確かでしょう。, 生還した父・オットーの公演会による回想の形で描かれ、アンネに降り注いだ出来事がよく理解できます。, 原作は映画にも登場する、アンネの親友であるハネリ・ホスラーへのインタビューをまとめた『もうひとつの「アンネの日記」』であり、親友だからこその深いエピソードが映し出される側面が。, ただ、とくに収容所生活の細部は想像の範囲に過ぎないのは仕方ないところであり、「歴史的史実から想像し、創作されたものである」とエンドクレジットに表示されます。, とはいえ、そもそも原作もタイトルしか知らなかった自分にとっては、アンネについて知れる非常に分かりやすい内容でしたので、同じような状態の人はきっと参考になるはず。, 本記事で紹介している映画の中では、とくに辛い収容所生活を描き出している点にも注目したいところ。, 1,200人ものユダヤ人を軍需工場に必要であるという名目で救い出した、ドイツ人の実業家『オスカー・シンドラー』の実話を描く伝記映画であり、3時間を超える超大作です。, 金儲けが目的であったのが、次第に心境が変化し、最後には自らの命を危険に晒してまでもユダヤ人を救うことに奔走する姿が、克明に描きだされるのが特徴。, 話の舞台がポーランドなため、本国ドイツでの出来事ではありませんが、占領国においてもおぞましい行為が平然と為されていたことがよく分かるはず。, いささかボリューミーな内容なのは否めないものの、アカデミー賞受賞作という点からも、完成度の高さはお墨付き。, ユダヤ系ポーランド人のピアニストの実話を元に脚色し映像化した作品であり、アカデミー賞受賞作の有名映画。, ナチス系統の映画では、唯一物語の重要な要素に音楽がある作品であり、僕自身ミュージシャンな為、食い入るように見てしまいました。, 過激な描写の多くなってしまう題材なので、本作も例に漏れず、リアルさを意識した辛辣なシーンも多いです。, あくまで物語の軸はピアニスト自身に当てられてる為、ナチスについての理解が深まるような内容では無いですが、実際にあった出来事として捉えると、色々と感ずるものがあるはず。, 歴史上の独裁者として知られるのはヒトラーだけでなく、イタリアのムッソリーニ、カンボジアのポルポトなどなど数多くの人物が存在します。, 残酷な負の歴史として語り継がれている彼らの所業を、改めて直視することで、人間の愚かさ・傲慢さというのが見えてくるはず。, どのような人も往々にして怒りや恐怖に捉われがちゆえ、ぜひ映画を教訓として何かしらの学びを得てもらえるといいのではないでしょうか。, まだ見れてない作品もあるため、内容は随時更新していきますので、楽しみにしてもらえると嬉しく思います。, VOD(ビデオ・オン・デ・マンド)で映画を見ると、DVDレンタルよりも圧倒的に安上がりでオススメですよ。, ソロミュージシャンとして『スズキサトシ』名義で活動中。音楽を愛しており、映画・文学も含めたカルチャー全般が好き。「読んだ人が音楽を楽しみ、豊かな生活を送れるコンテンツ」をテーマにブログを運営しています。詳しいプロフィールは公式HPへ。. ナチスの台頭を主題とした映画 ナチス体制下で制作された映画. <劇中に登場する車輌、兵器> 戦闘車両:II号戦車、Sd Kfz 222・Sd Kfz 223装甲車etc. ! 。クラウドに好きなだけ写真も保存可能。, このショッピング機能は、Enterキーを押すと商品を読み込み続けます。このカルーセルから移動するには、見出しのショートカットキーを使用して、次の見出しまたは前の見出しに移動してください。, ピルー・アスベック, ラールス・ミケルセン, グスタフ・ディーカー・ギーセ, マルティン・グレイス, 背景が分からないと評価しようがないとも思うので、なるべく概略が分かり易いように整理してみる。, 第二次大戦、ドイツの北欧侵攻をデンマーク側から描いたこの作品。主人公たちは国境付近で演習・訓練中。そんな中、第二次大戦開戦、ドイツ軍が侵攻開始。進撃を食い止めようと反撃するけれども、敵装甲車両やスピードに追い付かず、おまけに弾切れ。最終的には降伏するというあらすじ。…て言うか、装甲車両相手に自転車で移動して戦うのは完全に分が悪いし、降伏は当然の結果な気もする。, まず、考証がしっかりしている事 に驚かされます!登場する兵器類や制服の作り込みも素晴らしいのですが、特に全兵士に制服が行き届いておらず、旧型の軍装の兵士の姿が混在している状況が再現されている等、本国ということはありますが感心させられます。, 商品詳細ページを閲覧すると、ここに履歴が表示されます。チェックした商品詳細ページに簡単に戻る事が出来ます。, © 1996-2020, Amazon.com, Inc. or its affiliates. Amazonプライム・ビデオで『エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略』を見ました。 第二次世界大戦初期の、ドイツ軍によるデンマークへの侵攻作戦を題材にした戦争映画です。小さな国が巨大な軍事力を持つ国と絶望的な戦いを強いられます。 デンマークを代表するキャスト・スタッフが集結! リアリティあふれる戦闘シーンは圧巻! ナチス系統の映画では、唯一物語の重要な要素に音楽がある作品であり、僕自身ミュージシャンな為、食い入るように見てしまいました。 過激な描写の多くなってしまう題材なので、本作も例に漏れず、リアルさを意識した辛辣なシーンも多いです。 主人公サン少尉を演じるピルー・アスベックは、『LUCY/ルーシー』にも出演するなど、ハリウッドでも活躍。また、“北欧の至宝"と呼ばれているマッツ・ミケルセンの兄として知られているラールス・ミケルセンが、主人公の上官役で共演し、それぞれ迫真の演技を披露している。脚本のトビアス・リンホルムは、デンマークの名匠トマス・ヴィンターベア監督とのコンビで活躍するベテラン・シナリオライター。北欧屈指の実力派キャスト・スタッフが結集して作り上げた意欲作に仕上がっている。 ★特典映像(予定) ・オリジナル予告編 【ストーリー】 1940年4月8日、サン少尉(ピルー・アスベック)率いる小隊は、国境付近で訓練を行っていた。射撃訓練、移動手段である自転車の解体・組立、いつもと同じ風景の中、兵士たちは軽口を叩き合う。しかし、何か不穏な空気が漂い始めているのを肌で感じていた。そして彼らの懸念は現実のものとなり、軍上層部からドイツ軍が国境に接近しているという報告が届く。夜が明けての9日早朝、ドイツ軍がデンマークへの侵攻作戦を開始。前線となったユトランド半島オールボーでは民間人をも巻き込んだ総力戦が展開されようとしていた。最初にドイツ軍と対峙したデンマーク軍のサン少尉率いる小隊は、本隊の援軍が来るまで持ちこたえようと奮戦するが…。 <キャスト> ピルー・アスベック 『LUCY/ルーシー』 ラールス・ミケルセン 「SHERLOCK(シャーロック)3 」 グスタフ・ディーカー・ギーセ マルティン・グレイス <スタッフ> 監督:ロニ・エズラ 脚本:トビアス・リンホルム『光のほうへ』『偽りなき者』 【DVD仕様】 2015年/デンマーク/カラー/本編93分+特典映像(収録分数未定)/16:9LBビスタサイズ/片面1層 音声:デンマーク語 5.1ch ドルビー・サラウンド、日本語 2.0ch ドルビー・ステレオ 字幕:日本語字幕、日本語吹替え字幕/1枚組 発売元:彩プロ 販売元:TCエンタテインメント (C)2015 NORDISK FILM PRODUCTION A/S ※ジャケットデザイン・仕様・内容は変更になる場合がございます。, 第2次大戦下、ナチスドイツによるデンマーク侵略を描いたミリタリーアクション。1940年4月8日、デンマーク軍のサン少尉率いる小隊は国境付近で訓練を行っていた。9日早朝、ドイツ軍がデンマークへの侵攻作戦を開始し、総力戦が展開されようとしていた。, 1940年4月8日、サン少尉率いる小隊は、国境付近で訓練を行っていた。いつもと同じ風景の中、兵士たちは軽口を叩き合う。しかし、何か不穏な空気が漂い始めているのを肌で感じていた。軍上層部からドイツ軍が国境に接近しているという報告が届く。最初にドイツ軍と対峙したデンマーク軍のサン少尉率いる小隊は、本隊の援軍が来るまで持ちこたえようと奮戦する…。圧倒的不利な状況に置かれながらも、戦い続けた男たちの物語。, 予約商品を通常商品と同時にご注文の場合、通常商品も予約商品の発売日にまとめて発送される場合がございます。通常商品の配送をお急ぎの方は別々にご注文されることをおすすめします。予約注文・限定版/初回版・特典に関する注意は, 注記:Amazon.co.jpが販売・発送する一部の商品は、お一人様あたりのご注文数量を限定させていただいております。お一人様あたりのご注文上限数量を超えるご注文(同一のお名前及びご住所で複数のアカウントを作成・使用されてご注文された場合を含みます。)その他Amazon.co.jpにおいて不正なご注文とみなす場合には、予告なくご注文をキャンセルさせていただくことがあります。, 全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。, さらに、映画もTV番組も見放題。200万曲が聴き放題 映画で描かれる時代は1940年4月。ノルウェーの首都オスロがナチス=ドイツ軍によって侵攻されてしまうところから始まる。 エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略(2015)の映画情報。評価レビュー 37件、映画館、動画予告編、ネタバレ感想、出演:ピルー・アスベック 他。 不可侵条約を無視して、ドイツ軍がデンマークへと侵攻した「ヴェーザー演習作戦」と呼ばれる電撃作戦を史実に基づき克明に描くミリタリーアクション大作。ドイツ軍の侵略から祖国を守るため、わずかな武器・装備で臨んだデンマーク軍兵士たち。国境線での攻防から真昼の市街戦へ。そして、戦闘の果てに訪れる衝撃のラスト! レアな兵器が続々登場! 第2次世界大戦でデンマークはナチス・ドイツの侵略を受けましたが、戦争開始からわずか4時間で降伏してしまいました。それとは知らずに戦い続けたあるデンマーク軍の部隊の話です。, ピルウ・アスベック(サン少尉) 11月にソ連とフィンランドとの間で冬戦争が勃発し外交状況が変化すると、チャーチルは再び機雷敷設計画を提案したが、却下された。, 12月、イギリスとフランスは、冬戦争でソ連から攻撃を受けているフィンランドへ援助を送ることを本気で計画し始めた。その陸軍参謀部による計画は、フィンランド救援を口実に、ナルヴィクへ部隊を上陸させ、ナルヴィクとボスニア湾沿岸のスウェーデンのルレオとを結ぶマルムバナンという鉄道をコントロール下に置くことを求めていた。この計画はチェンバレン首相とエドワード・ウッドも支持した。英仏両国は、ノルウェーとスウェーデンの好意的な対応を期待していたが、ノルウェーとスウェーデンは、はっきりと拒絶したので、英仏では、否定的な意見が強くなった。遠征計画の準備は続行されたが、1940年3月に冬戦争が終結するとそれを正当化する理由もなくなってしまった。この計画が実施されていたなら、英仏は、ソ連と戦争することになって、第2次世界大戦のありようは、大きく変わっていただろう。, 12月14日に、アルフレート・ローゼンベルクとレーダー提督の斡旋で、ノルウェーのヴィドクン・クヴィスリングは、ヒトラーと会談したが、彼は、イギリスがノルウェーの同意のもとノルウェーを占領する可能性、ノルウェー内の親英勢力の動き、自分の勢力によるクーデター案を述べ、支援を訴えた。ヒトラーは、クーデター案を支持はしなかったが、クヴィスリングに金銭的援助は約束した。, 3月12日に、フィンランドがソ連と講和してしまうと、フィンランドへの援助を表明していながら、何も出来なかった英仏首脳は、批判の矢面に晒されることになった。フランスでは、3月20日にダラディエ首相が退陣して、新たに、ポール・レイノーが首相となった。チェンバレンは首相のポジションを維持できたが、批判を躱す為に、以前は慎重であったウィルフレッド作戦とR4計画を支持する立場に転換した。レイノー首相は、ノルウェーでの戦争には賛成であった。3月28日の英仏合同戦争会議で、両国は、4月5日にウィルフレッド作戦を実施することで合意した。しかし、イギリス海軍の艦船のやりくりの都合で、実際の実施は、さらに遅れ4月7日となった。, 英仏がノルウェーの一部を占領する可能性を懸念したヒトラーは、1939年12月14日にOKWに対してノルウェー侵攻計画の素案策定を始めるよう命じた。OKW作戦部次長ヴァルター・ヴァルリモント大佐の下、少数の幕僚によってまとめられたNordという名の研究案は、陸軍の1個師団のみしか参加しないものであった。1月に、OKWは海軍のテオドール・クランケ大佐をチーフとし、三軍より各分野の専門家を出させて、OKWの下で本格的な侵攻計画を練ることにしたが、秘密保持の為、異例なことにOKH(陸軍総司令部)やOKL(空軍総司令部)は計画立案からは排除され、立案グループは侵攻計画をヒトラーに直接報告する事になった。, 計画の基本は、ノルウェー軍の動員センターのある都市を同時に奇襲し、ノルウェー軍の体制が整う前に圧倒して、反撃の余地を与えないことであった。主要攻撃目標は、以下の都市であった。エゲルサンには、大西洋への海底電線のステーションがあり、その占領が必要とされた。オスロ、ナルヴィク、ベルゲン、トロンハイム、クリスチャンサン、エゲルサンに、海軍艦艇に分乗した陸兵を派遣して、ヴェーザー時(侵攻時)に上陸し占拠する。, 1940年1月27日、最終的な計画にヴェーザー演習作戦というコードネームが付けられた。, 1940年2月21日、ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵大将が作戦の司令官に選ばれた。ファルケンホルストは第一次世界大戦においてフィンランドで戦っており、極地での戦いに精通していた。その日から、ファルケンホルストとXXI軍団司令部の一部の参謀、クランケ・グループで作戦計画の見直しが行われた。, 3月1日に、OKWはヒトラーの署名した総統指令10a(ヴェーザー演習作戦)を発令して、それまで、OKWと作戦立案者のみであった計画を三軍に公開したが、海軍を例外として、陸軍と空軍からは相当な反発があった。OKHやOKLの意向を反映して、第7降下猟兵師団や第22空輸歩兵師団などの精鋭師団は、作戦計画から落とされた。ヒトラーとOKWは統一司令部の設置を望んだものの、ゲーリングが強く反対したので、ファルケンホルストは陸上部隊に対してのみ指揮権を持ち、ファルケンホルストの司令は、OKW作戦部が海軍、空軍へ取り次ぐことになった。, Uボートも作戦の支援にまわすため、大西洋でのUボートの作戦ほぼすべてが停止された。何隻かの訓練用のものも含め投入可能な潜水艦はすべて、ヴェーザー演習作戦支援のハルトムート(Hartmut)作戦に投入された。, クランケ・グループによるオリジナル案ではノルウェーには侵攻するとともに外交手段でデンマークの飛行場を確保する計画であった。しかし、ファルケンホルストによる見直しでは、空軍の意向を反映して外交交渉による不確実性を排除するために、デンマークへも軍事侵攻することになった。デンマーク侵攻のため、2個歩兵師団と第11装甲擲弾兵旅団からなるXVI軍団が編成された。また、約1000機からなるX航空軍団が全作戦の支援を行う予定であった。, 日照時間の関係から、作戦が可能なのは、4月15日までで、それ以降は、ナルヴィクやトロンハイムなどでは、夜が短すぎて奇襲要素は期待できないとされていた。, ノルウェーは、第一次世界大戦後の歴代政権は、軍備を怠っていたため、質量ともに、危険な状態にあった。陸軍は、6個師団を持っており、平時には、19000人の定数であった。総動員時は、その5倍の兵力。それぞれ、1 - ハルデン、2 - オスロ、3 - クリスチアンサン、4 - ベルゲン、5 - トロンハイム、6 - ハーシュタに、司令部を置いていた。1939年11月のフィンランド=ソ連間の冬戦争の勃発に伴い、北部の第6師団と2個独立歩兵大隊のみ準動員状態であり、7100人の兵力を持っていたが、その多くは、フィンランド、ソ連国境の近くに配置されていた。残りの5個師団は、8220人の兵力であった。戦車と対戦車兵器は、保有していなかった。ノルウェーに空軍はなく、陸軍航空隊と海軍航空隊があった。陸軍航空隊は、41機の作戦機を保有していた。空軍力増強の為に、アメリカ合衆国へ戦闘機が発注されていたが、これらの配備は、ドイツ軍の侵攻時には間に合わなかった。4月9日には、オスロ、ベルゲン、クリスチャンサン、トロンハイムの沿岸砲台は、戦時定数の1/3の人員が配置されていた。[1], 2月16日、イギリス駆逐艦コサックが、ノルウェー領海内でドイツの補給艦アルトマルクへの臨検を行い、アルトマルクから捕虜となっていた商船乗組員を救出した(アルトマルク号事件)。それは明白なノルウェーの中立を侵害する行為であった。この事件以降、イギリスによるノルウェーの中立侵犯は続発するようになった。この事件で、ヒトラーは、イギリスはノルウェーの中立を尊重する気がなく、ノルウェーの中立維持も当てにならないことを確信し、侵攻が必要であると考えた。, 3月12日、イギリスはノルウェーへの遠征軍派遣を決定し、遠征部隊は3月13日に乗船を開始した。しかし、冬戦争終結によりフィンランドへの支援の必要性がなくなり作戦中止となった。, 3月28日、英仏合同戦争会議は、ノルウェー領海内への機雷敷設(ウィルフレッド作戦)を実施し、それに続いて、トロンハイム、ナルヴィクへ兵員を上陸させること(R4計画)を決めた。, 4月3日、ノルウェー侵攻に参加する、最初のドイツ軍侵攻部隊の艦船はドイツを出港した。, 4月3日、ドイツ国防軍情報局(Abwehr)のハンス・オスター大佐は、デンマークとノルウェー侵攻が翌週であることを、ヴァチカンの情報仲介者とオランダのベルリン駐在武官にリークし、デンマーク、ノルウェー、イギリスに伝えるよう依頼した。しかし、この情報は、正しい人物に伝わらなかったり、情報評価が誤ったりで、これら三国政府の動きに影響を与えることはなかった[2]。, 4月5日、イギリス海軍のウィルフレッド作戦が実行に移され、巡洋戦艦レナウンを含む艦隊がスコットランドから出港した。, 4月6日から4月8日の間に、多数の随伴艦を伴った強力なドイツの水上部隊がスカゲラク水道とカテガット水道を通過するのを、スウェーデンとデンマークに観測された。また、バルト海沿岸のドイツ諸港での慌ただしい動きや、デンマーク・ドイツ国境での不穏な動きも観測された。ベルリン駐在スウエーデン大使は、ドイツ外務省に照会をおこなった。[2], 4月8日未明に、イギリス海軍によるベストフィヨルド南方への機雷敷設は完了したが、海中に転落した乗員の捜索を行っていた駆逐艦グローウォームがドイツ海軍に捕捉され、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーおよび駆逐艦2隻との戦闘で失われた。, 4月8日、1115時にノルウェー南岸沖の国際海域で、ポーランド潜水艦オジェウによりドイツの輸送船リオ・デ・ジャネイロが撃沈され、約100名ほどが、ノルウェー艦艇や漁船に救助されたが、生存者は制服着用のドイツの陸兵だった。ノルウェーでの訊問で、生存者は、ノルウェーの要請にもとづいてベルゲンへ行く予定だったと証言した。[2], 4月8日、イギリスとフランスのノルウェー駐在海軍武官は、ノルウェー海軍に、(中立を無視して)ノルウェー領海内に機雷敷設を行った事を通知した。, 戦略上、ドイツにとってのデンマークの重要性は、ノルウェーでの作戦の足場としてであった。そしてもちろん何らかの方法で支配下におく必要がある隣国としてでもあった。バルト海との関係でデンマークの位置を見れば、ドイツやソ連への航路の支配という点でも重要であった。, 狭く比較的平坦なデンマークの国土は、ドイツ陸軍の作戦において理想的なものであった。そして、デンマークの小規模な陸軍には希望はほとんどなかった。だが、朝早く少数のデンマーク軍がドイツ軍と交戦し、16名の死者と20名の負傷者を出した。ドイツ側の死傷者数は不明であるが、12両の装甲車などが破壊され、戦車4両が損傷した。また、ドイツの爆撃機1機も損傷した。[3]短時間の戦闘の間、二人のドイツ兵が一時的にデンマーク側に捕えられた[4]。, 1940年4月9日の最初のドイツ軍のデンマーク侵攻の直前、ドイツの駐デンマーク大使セシル・フォン・レンテ=フィンク(de:Cécil von Renthe-Fink (Diplomat))はデンマークの外務大臣en:Peter Rochegune Munchに電話をし、会談を求めた。20分の会談後、レンテ=フィンクは、フランスとイギリスの攻撃からこの国を守るため現在ドイツ軍はデンマークに向かっていると述べた。そしてレンテ=フィンクは、デンマークは抵抗をすぐに止め、デンマーク当局とドイツ軍との間で連絡を取るよう要求し、もし要求が入れられない時はドイツ空軍が首都コペンハーゲンを空襲するであろうと述べた。[4], ドイツの要求が伝達された時、第1陣のドイツ軍は既に進軍を開始しており、4時15分にGedserにフェリーで上陸した部隊が北へ向かっていた。降下猟兵は抵抗を受けることなくオールボーの二つの飛行場やStorstrøm橋、Masnedøの要塞を占領した。[4], 現地時間4時20分にドイツ軍の歩兵1000名が機雷敷設艦Hansestadt Danzigからコペンハーゲン港に上陸し、抵抗に会わずにthe Citadelのデンマーク軍駐屯地を素早く占領した。またデンマーク王族拘束のためドイツ軍は港からアマリエンボー宮殿へ向かった。ドイツ軍が到着した時、デンマークの近衛隊は既に警戒態勢にあり、別の増援部隊も向かっている最中であった。アマリエンボー宮殿に対するドイツ軍の最初の攻撃は撃退され、国王クリスチャン10世と大臣達は陸軍司令長官William Wain Priorと協議する時間を得られた。議論中、He111やDo 17の編隊が幾つか街の上空を飛行しOPROP!ビラを投下した。コペンハーゲン市民に対する爆撃の虞に直面し、戦闘継続に賛成なのはPrior将軍だけであり、8時34分に国内のことについての政治的独立の保持を条件にクリスチャン10世とデンマーク政府はすべて降伏した。[4], 5時45分、ドイツ軍のBf 110がシェラン島Værløseの飛行場を攻撃した。デンマーク軍の対空砲火にもかかわらず、ドイツ軍は11機の航空機を破壊し、14機を大破させた。[4], デンマークの戦いは6時間未満で終わった。デンマークが素早く降伏したことで、しばらくの間は独特の寛大な占領政策がとられる事になった。, ノルウェー侵攻を行うのはニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵大将指揮下のXXI軍団で、以下の部隊から構成されていた。, ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵大将のXXI軍団傘下の部隊を海軍と空軍の援護のもとにナルヴィク、トロンハイム、ベルゲン、スタパンゲル、クリスチャンサン、オスロに上陸させ、一気にノルウェーを制圧するというものだった。4月6日から8日の間にリューベック、キール、ヴィルヘルムスハーフェンを出港した陸兵を載せたドイツ海軍部隊は、4月7日と8日の夜に、デンマーク=スウェーデン間の水道を通過したが、この動きは両国に観測されており、その情報は、ノルウェー政府にも伝えられた。ドイツ軍の計画は、可能であれば、平和的に進駐することであり、ファルケンホルストは、最初の一発はドイツ側から撃ってはならないと陸軍部隊に指示していた。また、レーダー元帥も、同様に海軍部隊に対して、最初に発砲してはならず、ノルウェー軍の警告射撃は、応射する理由にはならない、と指令していた。, 4月8日未明から、明らかに危機を示す多くの情報が寄せられていたにもかかわらず、ノルウェー政府は、迅速な対応が出来なかった。ようやく、4月8日が終わる頃に、ノルウェー南部に限定した部分的動員令を出すことを決めたが、総動員令がラジオ放送を含むあらゆる手段をもちいて伝達するのにくらべて、部分的動員令は郵便で伝達することになっていた。動員令の初日は、4月11日になっていた。[5], ノルウェー政府は、軍からのドイツ軍が各地域で侵攻を始めている報告を受け、4月9日0200時頃、イギリス大使に、即時の軍事支援を要請するとともに、どのような支援が可能か、午後6時までに回答するよう要請した。[5], ドイツ公使ブラウアーは、作戦計画で指示されていたとおりの時刻、4月9日0430時に、ノルウェー外務省の図書室にて、ノルウェー外相コートに、ドイツの最後通牒を渡した。その文書には、ノルウェーが自身の中立をイギリスから守れないため、やむを得ず、ドイツ軍は戦争の間だけノルウェーの一部を占領する。ドイツ当局の元でノルウェーの領土と主権は尊重されるが、ノルウェー政府は、放送で国民に抵抗の停止を指示し、軍備をドイツ軍に渡し、ドイツ当局と協力しなければならない。抵抗に対しては、あらゆる手段をもって対抗する、と書いてあった。ノルウェー政府閣僚は、外務省で閣議中だったが、最後通牒を検討した結果、即座に全員一致で、ドイツの要求を拒否した。ノルウェー政府と王家は、その朝、オスロより130km北のハーマルへ移転することになった。[5], 4月8日に、ドイツ海軍の動きを一部、検知したイギリス海軍は、艦艇を対応させるために、すでに乗船済の陸兵は下船させR4計画は中止となった。4月9日に、ノルウェーからの緊急の軍事支援要請を受け取ったものの、ノルウェー政府・軍からの具体的な要求はなく、ノルウェー政府および英仏のオスロ駐在大使は、ドイツ軍から逃れるため移動中で連絡が取れなかった。ノルウェーからは、未確認の断片的な情報が伝わるのみで、英仏政府は、どう対応するか議論が続いたが、4月11日の終わりに、まずは、第24警護旅団と第146歩兵旅団の6個大隊相当をナルヴィクへ送る事が決まった。一方、フランスの発案で、スウェーデンに連合国側で参戦するようストックホルムを訪問した英仏連合使節団は、スウェーデン当局者から、絶対中立維持の回答を受けたが、別に、ノルウェーを救うにはトロンハイムの奪還が一番効果的である、という助言を得た。4月12日には、避難していたオスロ駐在イギリス大使とも連絡が付き、ノルウェー軍司令官ルーゲが求めているのは、やはり、トロンハイムの奪還であることが明らかになった。そこで、トロンハイムの重要性が英仏側でも認識されたが、既に計画されていたナルヴィク派兵の第一陣は、4月12日にスコットランドを出港していた。4月13日に、第2次ナルヴィク海戦の結果が伝わると、ナルヴィクの奪還は容易そうに考えられたので、イギリスの戦時内閣は方針を変更して、第146歩兵旅団を、ナムソス(トロンハイムの北北東約90km)に上陸させることにした。4月14日に、第24警護旅団はナルヴィクの北西約40kmのハーシュタに上陸した。これらの陸兵は、極地での訓練や装備を欠いており、また、R4計画の中止で急遽下船させられた為、重装備を欠いていた。[5], グループ1は途中までグループ2と共に航行した。途中、イギリス海軍のG級駆逐艦グローウォームを撃沈。4月9日未明にグループ1はナルヴィクのあるオフォトフィヨルドに入り、ナルヴィクなどに兵員を上陸させた。また、ナルヴィク港ではノルウェー海軍のノルゲ級海防戦艦エイスヴォルとノルゲが投降要求に応じなかったので撃沈した。4月9日午前に、ナルビク地区の防衛司令官サンドロ大佐は、市民の犠牲を避けるため降伏し、ナルビク市街と重要な武器弾薬貯蔵庫のあるElvegårdsmoenは、無血でドイツ軍の手に落ちた。イギリス海軍は、オフォトフィヨルドに侵入して、4月10日未明に第1次ナルヴィク海戦、4月13日に第2次ナルヴィク海戦が発生した。この2度の海戦でグループ1のドイツ軍駆逐艦は全滅した。4月14日に、イギリス軍は、ナルヴィクの北西40kmのハーシュタに上陸し、6月8日まで、イギリス・フランス・ポーランド・ノルウェー連合軍とドイツ軍の間で、ナルヴィク周辺で戦闘が続いた。ドイツ軍はナルヴィクを占領したが、孤立しており、数的には、連合軍は6倍近い優勢だったが、防衛軍に有利な地形を利用して、防戦に努めた。5月28日に連合軍はナルヴィクを奪回したが、フランスでの大敗により、イギリスは5月24日に撤退を決定済だった。連合軍は、6月8日に撤退し、ドイツ軍は再び、ナルヴィクを占領した。, 4月8日夜、グループ5はオスロフィヨルド入り口に到着した。そこでアルバトロスがノルウェーの哨戒艇ポル3を撃破した。オスロフィヨルド内に入ったグループ5は4つに別れ、オスロ、ホルテン、ラウエイ島、ボレルネ島の攻略に向かった。オスロへはブリュッヒャー、リュッツォウ、エムデンなどが向かったが、途中のドレーバク水道でノルウェー軍の要塞から攻撃を受けブリュッヒャーが撃沈されリュッツォウも損傷したため引き返した。これによりオスロ占領が遅れ、ノルウェー政府や王族の脱出を許す結果となった。, ホルテンではノルウェーの機雷敷設艦オーラヴ・トリュグヴァソンが抵抗し、R17が失われた。, 夜明け後、ドイツ空軍が攻撃を開始し、空路運ばれた部隊によってフォルネブ飛行場が確保された。各地のノルウェー軍は順次降伏した。, ドイツ軍の侵攻後、連合国軍がナムソスやÅndalsnes、ナルヴィクに上陸し、ノルウェー軍と共にドイツ軍と戦った。しかし、4月29日にはノルウェーの国王と内閣とがモルデからトロムソへ脱出し、5月1日のÅndalsnesからの連合国軍の撤退をもってノルウェー中部での抵抗は終了した。, ホーコン7世とオーラヴ王子や内閣は6月7日にイギリス重巡洋艦デヴォンシャーでトロムソを離れ、イギリスへ向かった。, 北部では5月28日に、イギリス・フランス・ポーランド・ノルウェー連合軍がナルヴィクを奪回したが、フランスでの戦況悪化により連合国軍は撤退(アルファベット作戦)した。, “The German Decision to Invade Norway and Denmark”, http://www.history.army.mil/books/70-7_02.htm, A detailed article about the German invasion of Denmark, A short introduction to the German invasion of Norway, Norway 1940: A detailed description of the chain of events, The Royal Navy: Norwegian invasion and campaign, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ヴェーザー演習作戦&oldid=80185673, 掃海艇(Rボート):R17、R18、R19、R20、R21、R22、R23、R24.