十分条件は、ポツダム宣言を受諾し、降伏しても国体護持ができるという確信を天皇と重臣たちが持てたことだ。 事実、昭和二〇年八月一二日の皇族会議で、天皇が連合国に降伏することにすると告げたとき、朝香宮に「講和は賛成だが、国体護持ができなければ、戦争を継続するか」と問われたのに対し「勿論だ」と答えている。つまり、国体護持ができるという確 連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において[48]、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある[49][50]。, ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。, ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している[51][52]。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については1855年の日露和親条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した国境線であったため、台湾や満州・朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反しているとしている[53][54]。一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものと主張している。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階[55]で停滞しており、2019年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。, 中華人民共和国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は1949年(昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は日中共同声明および日中平和友好条約が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し[56]、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は日華平和条約(1952年8月5日発効)による。ただし1972年(昭和47年)9月29日に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。南沙諸島は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。, 北マリアナ諸島については1899年にドイツ領となって以降、日本の委任統治下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄にしたがい、1947年にアメリカの信託統治に変更され北マリアナ自治領を形成している。, 日本政府は「(世界征服の記述がされた)ポツダム宣言第6項は当時の連合国側の政治的意図を表明した文章であり、その詳細について政府としてお答えする立場にない」「ポツダム宣言は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)により連合国との間で戦争状態が終結されるまでの間の連合国による日本国に対する占領管理の原則を示したものであり、ポツダム宣言の効力は日本国との平和条約が効力を発生すると同時に失われた」としている[57][58]。, ポツダム宣言には、当時の日本国民がもっとも関心を持っていた天皇制がどうなるのか、ということが含まれていなかった。戦後になって、太田三郎は直接起草者のユジーン・ドゥーマンから、そうなった理由を聞き、その内容を天皇に伝えた。, 戦前、ロンドンの日本大使館の館員であった太田三郎は、同じロンドンにあったアメリカ大使館の一等書記官のドゥーマンと知り合い、日米開戦時まで親交を続けた (ドゥーマンは日本生まれで日本語に堪能であった)。終戦直前、情報局情報官であった太田は、日本で最初にポツダム宣言に接し、その文体の特徴から作ったのはドゥーマンであると直感したという。, 戦後間もない1950年に太田は運輸審議会委員として渡米した折、コネチカット州にあるドゥーマンの自宅に招かれ旧交を温めた。ドゥーマンは「ポツダム宣言の成立過程をぜひ日本人に伝えておかなければならない、今までしゃべる機会がなかったし、君は最適なのでぜひ聞いてほしい」と言って一抱えもある資料を持ち出して深夜から夜明けまで熱心に語った。ドゥーマンが語ったのは、ポツダム宣言の最初の草案を書いてグルーに渡したのは自分であること、また、そのころの国務省や世論は天皇制こそが軍国主義の元凶であるという誤った認識を持っていて、廃止論を唱える者が多く、いかに苦労して天皇制廃止論者と戦ったか、ということであった。, 太田としては初めて聞くことなので大いに興奮し、そのまま帰国して知り合いの松平式部官長にいきさつを話した。すると松平も感動して「君、その話をぜひ陛下にしてさしあげてくれないか、実は陛下も、天皇制はグルーさんがはからって残してくれたんだろう、とは思っていらっしゃるが、そんなにやってくれたとはご存じない、きっと陛下はお喜びになるし、興味をお持ちになるに違いない」と言われ、直接天皇に話すことになった。天皇は太田の話に大変興味を持ち、ときどき「そうお!」と相槌を打って聞き入った。太田は話す内容を一応原稿にして持って行ったが、途中からは原稿そっちのけで熱心に語り、予定の時間を大幅に超えた[59]。, この口語訳はWikipedia編集者によりなされたものです。利用の際はご注意ください。, Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender, 大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送の原文)では「米英支蘇」となっている。尚、複数国による宣言(や協定や条約)の場合、その宣言(や協定や条約)に参加したからといって宣言中で定められる権利等の全てが宣言(協定、条約)国全てに等しく与えられるとは限らない。権利や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされるものである。また、宣言参加者には宣言内で定められる事項について全般的にその遵守義務が発生する, 首相交代による。チャーチルは 7 月 26 日まで。アトリーは 27 日以降(ただし前半も次席として参加)。, 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.87-88, pp.99-100, 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 p.269 2012年, 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 pp.348 - 349 2012年, The ultimate form of government of Japan... government は無冠詞である(プログレッシブ英和中辞典(第4版), "… the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be, 翻訳を行った下田は"subject to"は「隷属する」の意味では有るが、これでは軍部が受け入れないので、「制限の下に置かれる」と意訳したと説明している。さらに、米国の回答には「日本国の最終的の政治形態は『ポツダム』宣言に遵い日本国民の自由に表明する意志に拠り決定されるべきものとす」となっていたところを、下田は「日本国の最終的の政治形態」の部分を「最終的の日本国の政府の形態」と訳し、天皇は無傷でその下の政府の形態が国民の意志で決められると取れるように改めた。(出典:下田武三/著 戦後日本外交の証言 上, TOP SECRETであり事前に連合国各国の同意を得たものではなく、マッカーサーがこの文書が公開されることを望んだため、公表の事前に英ソ中各国政府に知らせることを条件に大統領も同意した, 日ソ共同宣言は外交文書(条約)であり同条約の締結と批准により戦争状態は終了し両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされている, 「三、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」, 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 pp.299 - 312 2012年, 参議院議員和田政宗君提出ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約についての政府の認識に関する質問に対する答弁書, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ポツダム宣言&oldid=80098946, 我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、, 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。, 我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。, 第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は, 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。, 日本の主権は日本本土諸島に限定され、日本が再び戦争を起こし、それを支持することができないよう無力化する。, 日本から軍国主義の影響が排除された場合、我々は日本が生存に必要な産業を保持することを認める。やがては日本と互恵的な貿易関係を構築することを認める, 前記の目的が達成され、日本国民の多数を代表する平和的政権が成立すれば、連合軍は日本から撤退する。, 「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年9月20日勅令第542号):通称「ポツダム緊急勅令」, 「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭二〇勅五四二)施行ニ関スル件(昭和20年9月20日勅令第543号), 昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク, 昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク航海ノ制限等ニ関スル件(昭和20年11月25日運輸省令第40号), 昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件(昭和20年12月29日勅令第730号), 昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴ひ発する命令に関する件に基く東亜海運株式会社の解散に関する勅令(昭和21年11月22日勅令第563号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く警察関係命令の措置に関する法律(昭和27年3月28日法律第13号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年3月31日法律第43号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く農林関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月7日法律第73号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律(昭和27年4月11日法律第81号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く文部省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月12日法律第86号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く経済安定本部関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月12日法律第88号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く連合国財産及びドイツ財産関係関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月23日法律第95号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く建設省関係命令の措置に関する法律(昭和27年4月28日法律第98号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く厚生省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月28日法律第120号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月28日法律第126号), ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く法務府関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年5月7日法律第137号), 連合国財産の返還等に伴う損失の処理等に関する法律(昭和34年5月15日法律第165号), イーブン・A.エアーズ 「ホワイトハウス日記 1945-1950」平凡社、1993, 五百旗頭真「20世紀の日本3 占領期−首相たちの新日本」読売新聞社、1997、中公文庫、2002. ポツダム宣言 (2015年06月28日 朝刊). 2.26事件を生き残った鈴木貫太郎にとって軍部の横暴は計算ずくのことだろう。鈴木貫太郎が首相就任時にもアドバイスをしていたという政財界に帰依者を多数抱えていた龍沢寺の山本玄峰は、当時の弟子であった田中清玄にこう言っていたという。, 「軍は気違いじゃ。気違いが走るときは、普通人も走る。日本の軍という気違いが刃物をもって振り回している。今、はむかったら殺されるぞ。そのうち気違いは疲れて刃を投げ出す。それを奪い取ればいい。」(田中清玄自伝), 鈴木貫太郎は疲れるまで待つつもりだったのだろう。老練といえば老練、愚鈍といえば愚鈍。この人に対する賛否はまさしく両論である。, この1945年4月の末にムッソリーニが死亡し、ヒトラーは自殺。ドイツの降伏は翌5月8日。これを受けて鈴木首相と外務大臣、陸海大臣と総長による天皇が臨席しない最高戦争指導会議(5月11日~14日)で、ソ連の仲介を通じて和平交渉をすることが決定する, ただし、天皇を交えた翌月の6月8日の御前会議では戦争継続が確認されている。すなわち本土決戦である。, 極秘裏にソ連仲介での和平を探りながら、公式には戦争継続の姿勢を緩めぬということだ。, この時点で天皇の肚は決まっていたようだ。5月8日に講和時に武装解除と責任者処罰は致し方ないとの決断を木戸内大臣に語った。(『高木日記』)、それを受けたものとして、戦争継続が議論された御前会議の翌日に6月9日に、木戸内大臣からの上奏「時局収集の対策試案」を受けるこれは天皇の意向を踏まえたものとみなして差し支えはないだろう。, 内容は率直たるもので、「沖縄がもはや陥落したからには次の先行きが暗く、迎え撃つ戦力も45年下半期には喪失する。軍部より和平をすすめるのが良いものだが、現状それはできそうもない。ドイツがベルリン壊滅のようになった二の舞いを避けるべく、天皇陛下によって和平を決めてほしい」というものだった(「木戸幸一日記」), 木戸内大臣の言葉どおり、6/21に沖縄守備軍は全滅。そして翌日に天皇は最高指導者会議を開き、戦争終結にむけて動くように初めて指示を与えることになった。ここで初めて、米内海相と東郷外相は5月の戦争指導会議で和平交渉の開始されていることを明言する。, 陸軍はソ連が対米国の戦略的必要上、日本が弱体化することを望まないであろうという読みのもと、この方策を強行に主張していた。が、この時の東郷外相は終始悲観的であった。致し方なく、ソ連と直接交渉するべく近衛が引っぱり出されるも、その近衛自身は先に触れた「近衛上奏文」にて、その当時の陸軍がソ連と通じているという説に捕らわれており、その脅威に警戒していた立場として、全くこれには乗り気ではなかった。, 「あの急迫した時代に、六月いっぱいもの長時間をかけてソビエト側と無益の交渉をしていた、そのことである。満州問題をソビエトの有利に解決して、そしてソビエトをわが方に引き付けようとする魂胆から出発した日本の提案のごときは、当時の情勢において、とうていソビエトを満足させるものではなく、日本の壊滅が目の前に迫っているとき、こんななまやさしい考え方でソ連をわが方に引っ張るなどは、私の目には、いかにも児戯に類したこととしか思えなかった」-当時の駐ソ大使佐藤尚武-(「昭和史探索」半藤 一利), 内実、ソ連はカイロ会談でアメリカから対日参戦を強く要望されていて、そのタイミングを計っている状況であった。1945年2月のヤルタ会談では対日参戦をトルマーマンに約束もしている。そのためにこの和平交渉について返事を引き延ばしていたのである。また、この直前の1945年4月には日ソ中立条約の非延長も通達しており、ソ連が日本に有利な仲介をするとはとても考えられない情勢でもあったのである。ソ連は7月18日に近衛の特使派遣を拒否する。, そうこうしているうちに7月26日ポツダム宣言が発表される。この間、軍部、特に陸軍は本土決戦を主張するものが多数であり、これに気を配るつもりか、鈴木はこれを「黙殺する」と答え、これがアメリカには「ポツダム宣言拒絶」と報道されることになった。, 「7月26日のポツダムで発布された最後通牒では、この強力な破壊は日本人の身に降りかからないことになっていた。日本の指導者たちはこの最後通牒を即座に拒絶した。もしいまなおわれわれの要求を飲まないとなれば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が空から降るものと思っていただかなければならない」(広島への原爆投下を知らせるトルーマン大統領演説), 8日に東郷外相が天皇に原子爆弾に関する情報を報告したところ、次のように述べたという。, 「この種の武器が使用させるる以上、戦争継続は愈々不可能になれるにより、有利なる条件を得んがため戦争終結の時期を逸するは不可なり。条件を相談するも纏まらざるに非るか。なるべくすみやかに戦争終結をみるよすに努力せよ」(「「終戦史録」外務省), 翌9日に緊急で戦争指導者会議の開催が決定。しかし同日、トルーマンの予告通り長崎に再び原爆が投下される。, 「言葉は不適当と思うが、原子爆弾の投下とソ連の参戦は、ある意味では天佑であると思う。国内情勢によって戦争をやめるということを、出さなくてすむからである」(米内海相 8月12日の発言『検証 戦争責任Ⅱ 読売新聞戦争責任検証委員会』) © 2004-2016 On the corner ltd.. All Rights Reserved. 2020/11/13 以下、太平洋戦争の帰趨は少なくとも1944年7月に「絶対国防圏と目されたサイパンの陥落でおおよそ決まっていました。 この後もなおもポツダム宣言に条件付きで応じるか、無条件かをめぐって陸軍が強行に条件付きを主張するも、再び14日に天皇の意向が示された。そして翌日に終戦となるも、この日にはいわゆる宮城事件という近衛師団将校の反乱が起きるも、これは鎮圧された。, なおソ連による8月9日対日参戦布告は、広島への原爆投下を知り、ソ連の仲介や圧力なく日本がアメリカ単独で降伏してしまうことを恐れてのことだったとの説が有力である。, (1)少しでも大きな損害を与えて、それを契機に和平を図る(天皇による一撃和平論) 1943年9月~1945年6月, (2)ソ連を通じて講和に持ち込む(戦争指導者会議での決定) 1945年6月22日~1945年8月9日, その間、近衛文麿を中心とする工作もあったが、これが直接の成果を結ぶことはなく、むしろ沖縄戦の敗北と日本各都市が壊滅的になるほどの空襲をへて、やっと(2)ソ連を仲介とした和平工作が動き出した。ここまで、昭和天皇の言う勝利の見込みを失ったという1943年9月から1年と9ヶ月。, そしてソ連を仲介とする工作も、これも実を結ばず。これは単に陸軍を中心とする国際情勢を甘く読んだが故に単に終戦をおられせただけの結果となる。ポツダム宣言が出た7月26日もこれに積極的に受諾の動きは見当たらない。むしろこれに対する国内世論と陸軍への目配せを考えた鈴木首相の発言がマイナスになった。, 陸軍を中心とする戦争継続の強硬派の存在という原因がもちろん最大の終戦が遅れた原因となるのは当たり前の話だが、これに輪をかけて以上のような紆余曲折があったわけである。, そうすると本格的に陸軍首脳も含めたポツダム宣言受け入れのきっかけとなったのは、8/6の原爆投下だったことになる。, 「聖断まで時間がかかったことは問題を残した。太平洋戦争における日本の戦死者175万人の過半数と民間人死者80万人のほとんどがサイパン陥落(1944年7月)以後であるこを考えればなおさらである」(『昭和天皇-理性の君主の孤独』古川隆久), 拝見いたしました。何故こんなことになってしまったのでしょうか。 第2次世界大戦末期の1945年7月26日、米英中が日本に対し、降伏を求めるポツダム宣言の文書を出した。 米英蔣[37]共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また陸軍からは政府が宣言を無視することを公式に表明するべきであるという強硬な要求が行われ[35]、同日、首相鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代仮名遣いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された(産経新聞は1950年創刊でこの当時は存在しない)。この「黙殺 (Mokusatsu) 」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore」と英語に翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議している[35]。なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。, トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった[32]。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた[32]。8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、広島市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし陸軍大臣阿南惟幾は、なおも戦争継続を主張し、議論は天皇臨席の最高戦争指導会議に持ち越された。, 10日未明の[38]御前会議でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、昭和天皇に聖断を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上三国干渉時の明治天皇の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、枢密院議長の平沼騏一郎から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された[39]。これとは別に同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた[40]。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした[39]。, 大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された[41]。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答[5]として決定された。回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した[41]。, この「バーンズ回答」は、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」[42]とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」[43]というものであった。"subject to"の訳については「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり[44]、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した[41]。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった[41]。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた[41]。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった[45]。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している[45]。, 8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。, 8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定を国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日である。