不在:4球団 大村直之(05-08年) 井口資仁 (97-04年、 01年に忠人から改名) お気に入りのプロ野球選手がつけた背番号の歴史を追ってみてください。, 歴代では 日本ハム:西川遥輝選手(外野手) 成績はリーグ優勝を果たし4連覇、しかし日本シリーズでは南海ホークスと対戦。南海のエース・杉浦忠の前に打線が沈黙、4連敗のストレート負けで敗退。, 三原脩が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズの監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝。巨人は大洋と4.5ゲーム差の2位に終わった。シーズン終了後、水原茂は監督を勇退した。, 川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。, この年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分立後初めてのBクラスに終わる。, 長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではこれまでの対戦でいずれも勝利することができなかった西鉄に4勝3敗で勝利し、日本一になる。王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占める。, 一転して、阪神と大洋の首位争いに加わることができず、王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、優勝した阪神と11ゲーム差の3位に終わる。, この頃から巨人の3、4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力、人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂、荒川博ら他球団出身のコーチが招かれた。, ペナントレース及び日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的に「V9」と呼ばれる。, この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、当時の子供が好きなものを表した「巨人・大鵬・卵焼き」は流行語となった。また、同時期に連載が開始し、後にアニメ化もされた漫画『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。, V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れた。またON以外にも、金田正一・城之内邦雄・堀内恒夫・高橋一三、渡辺秀武などの投手や、森昌彦、土井正三、黒江透修、柴田勲、末次利光、高田繁などの選手が揃っていた。, しかし、V9期後半になると長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、徐々に苦戦することが多くなった。1973年には湯口事件が露見。球団の工作や川上の非人道発言が次々に社会的バッシングを受け、以降プロ野球界においてヒールのイメージが付きまとうことになる。, 中日ドラゴンズに20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逃す(この年のチーム成績は、優勝した中日とゲーム差なし、勝率1厘差の2位)。この年を最後に川上が監督を勇退し、同時に長嶋茂雄、黒江透修、森昌彦も現役を引退した。, 前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身が引退したことによる戦力の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することができず、全球団に負け越した上に9月には球団史上新記録(当時)の11連敗で球団史上初の最下位(1975年の読売ジャイアンツ)に終わる。その年のオフに日本ハムから張本勲、太平洋から加藤初をトレードし補強する。, 前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす[注 3]。しかし、日本シリーズでは、阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。, 9月3日、王貞治がハンク・アーロンを抜く通算本塁打756本の世界新記録を樹立[15]。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは2年連続で阪急と対戦するが1勝4敗で2年連続シリーズ敗退。, ヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末に2位のヤクルトに4.5ゲーム差をつけ首位に立っていたが、9月以降成績が急降下、ヤクルトに逆転を許し2位に終わる。このときの戦いぶりから長嶋に対して監督としての資質に、次第に疑問が投げかけられてゆくようになる。そして1978年オフ、当時法政大学野球部OBで作新学院職員としてアメリカへ留学した江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる。最終的には1979年2月に、江川がいったん阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをすることで決着がつく。だが、この江川事件はマスコミの総攻撃を受けることになった。, 5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績が次第に降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が3塁のレギュラーを獲得するなど若手の台頭も若干見られるようになる。同年オフに、青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季キャンプでは松本匡史、中畑清、江川、西本聖、角三男らを猛特訓した。後に「地獄の伊東キャンプ」として語られていく。, 開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋茂雄に対する批判はこれまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞の幹部による事実上の解任だった。この動きに対してファンは激怒し、読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出した[注 4]。同年オフ、王も現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。, 藤田元司が監督に就任、また、前年に現役引退した王貞治が助監督に就任。藤田元司、王貞治、牧野茂(ヘッドコーチ)による「トロイカ体制」が誕生。この年20勝の江川卓、18勝の西本聖、11勝の定岡正二、12勝の加藤初ら先発4本柱を形成し4年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでは、巨人と同じく後楽園をフランチャイズにする日本ハムファイターズと対戦[注 5]。4勝2敗で8年ぶりの日本一を達成。江川が史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率、最多勝、最高勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者ではルーキーの原辰徳が新人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神の藤田平と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。, 10月まで中日との優勝争いを繰り広げるも、優勝した中日と0.5ゲーム差の2位となっている。, 松本匡史が盗塁王(このときの盗塁76はセ・リーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武ライオンズと対戦、3勝4敗で敗れる。, この時期投手陣の中心となったのは江川卓、西本聖、定岡正二である。西本は愛媛県立松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、法政大学卒で米留学経て入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20-19-16)、西本48勝(18-15-15)、定岡33勝(11-15-7)の成績を残している。, 藤田政権の「トロイカ体制」で助監督を務めていた王貞治が監督として指揮を執るが、1984年・3位→1985年・3位→1986年・2位(優勝した広島とゲーム差なし、勝率3厘差)→1987年・優勝→1988年・2位と1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。1988年には本拠地が後楽園球場から東京ドームへと変わったが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響いて結果は2位、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王はこの年限りで監督を引責辞任。, 藤田元司が監督に復帰。斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槙原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱が機能し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。1989年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫した後、4連勝し逆転で17回目の日本一に輝く[17]。, 2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ槙原も9勝とこの六人だけで合計80勝を挙げチーム勝利が88勝なので約9割を占め、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、9月8日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランに[注 6]より史上最速で2年連続のリーグ優勝を果たす。2位・広島とのゲーム差を22ゲーム付けた。しかし、西武と対戦した日本シリーズでは、4連敗のストレート負けで敗退している。, 投手陣では桑田が16勝を上げる大活躍をしたものの、斎藤、槙原、宮本、木田、香田の先発陣は軒並み不調で香田以外貯金を作れず(香田も貯金は1つだけ)前年80勝を上げた6人での合計は56勝に終わる。リリーフ陣はさらに深刻で、最多セーブは水野雄仁の3つが最多。この年優勝した広島、2位中日、3位ヤクルトと盤石のリリーフエースがいるチームとの明暗が別れるシーズンとなった。打撃陣も川相昌弘が犠打で当時の年間犠打数を更新する66個を記録、クリーンナップも原が犠牲フライ数で王貞治の記録を更新するなど数字は出ているが勝利に結びつかず他の打者の不振も響き、特に守備面での失態が多くチーム盗塁阻止率はこの年.156で2年連続12球団ワーストを記録し失策数も前年48個だったのが76個だった。1979年以来12年ぶりのBクラスとなる4位に転落した。シーズン終了後、近藤昭仁ヘッドコーチ・松原誠打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。, 序盤の不調が響き、5月には9日の対大洋戦に負け8年ぶりに最下位に転落する。特に前年の勝ち頭桑田が出れば打たれるの繰り返しで結局シーズンを通して尽く連勝ストッパーになってしまった。しかしチームはシーズン途中に西武から移籍の大久保博元と新外国人にロイド・モスビーの加入、生え抜きの石毛博史がリリーフエースとして頭角を現したこと等により大快進撃で、前半戦が終了する頃には首位に立った。しかし8月に入ると失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との大混戦の優勝争いの結果、最終的には阪神と同率2位になるも2年連続のV逸が決定[注 7]。この年限りで藤田は監督を勇退。後任には長嶋茂雄が13年ぶりに復帰、ドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得する。, この時期投手陣の中心となったのは斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己。斎藤は安定感、桑田は投球術、槙原は球威と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。藤田の監督在任時の成績は、斎藤68勝(20-20-11-17)、桑田57勝(17-14-16-10)、槙原42勝(12-9-9-12)の成績を残している。, 現役大リーガーのジェシー・バーフィールドやヤクルトから長嶋一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振(チーム打率は12球団最下位、得点、安打もリーグ最下位)、投手陣も斎藤、桑田の不調から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント (FA) 制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得する。その一方駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。, 開幕戦で松井・落合のアベックホームランが出てその勢いで前半は首位独走したが、夏場に失速。終盤最大10ゲーム差をつけていた2位・中日に猛烈な勢いで追い上げられ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦〈ナゴヤ球場〉、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己、斎藤、桑田の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。日本シリーズでは、4勝2敗で初めて西武ライオンズを破って日本一に輝く[注 8]。篠塚がこの年引退。, 近鉄の阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。広島の川口和久、ヤクルトの広沢克己をFAで獲得。また同じヤクルトを自由契約となったジャック・ハウエル、ミネソタ・ツインズのシェーン・マックを獲得し30億円補強と呼ばれものの、阿波野は未勝利、川口は負けが先行でローテーションを守れず、広澤はチャンスで打てずまた6年ぶりの本格的な外野守備、また初の左翼手へのコンバートが慣れず守備でも足を引っ張ってしまった。斎藤は18勝で最多勝・槙原は11勝をあげローテーションを守ったが前年MVPの桑田が序盤戦でプレイ中に大怪我をしてしまい、翌シーズンも全休してしまった。抑え投手も木田・石毛が連日痛打を浴びて敗戦。投打に渡り歯車が噛み合わず優勝争いからどんどん後退していたが、新人の河原純一、高村良嘉や若手の西山一宇、後藤孝志、杉山直輝、吉岡佑弐など二軍からはい上がった生え抜きを使い出してからチームの歯車がかみ合い連勝を重ね最終的には貯金14個作ったが、優勝したヤクルトにはことごとく負けてしまい、結局優勝争いに加わることができず、優勝したヤクルトと10ゲーム差のシーズン3位で終わった。また、同年の最終戦で原が現役を引退した。, 桑田の全休、槙原・河原のシーズン途中リタイアがあり、さらにシーズン序盤にリリーフ陣が崩壊し序盤Bクラスに落ちていたが、7月9日の対広島16回戦の2回に9連打のプロ野球タイ記録で勝つとチームは一気に加速。斎藤・新外国人のバルビーノ・ガルベスが共に16勝を上げ最多勝を獲得し、またシーズン中に補強しリリーフエースになったマリオ・ブリトーや日本ハムからFA移籍してきた河野博文がチームを支え、松井が1本差で本塁打王は逃したが主軸として成果を上げる。ルーキーの仁志敏久・清水隆行らの台頭もあり世代交代も決まった。当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。日本シリーズではオリックス・ブルーウェーブと対戦するも、1勝4敗で敗れた。オフに岡崎郁・長嶋一茂が戦力外通告を受け、引退した。, 西武から清原和博がFA権を行使して入団した。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強打者コンビ「MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得し95年の30億円を超える33億円補強を行ったが、開幕戦で3年連続開幕戦完封勝利をあげていた斎藤がノックアウトされたのをきっかけにヒルマンを含め主力選手に故障者・不調者が続出。桑田が復活しカムバック賞は逃したが再起、松井が本塁打王争いを繰り広げていたが一向にチームが浮上できず夏場まで最下位に沈み大苦戦した。優勝争いから脱落してから調子を上げ最終順位は1991年以来6年ぶりのBクラスとなる4位、第2次長嶋監督時代では2度目の借金でのシーズンを終了した。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団、宮本和知が現役を引退した。, 開幕戦、前年にカムバックした桑田が勝ち投手になりスタートダッシュに成功。松井、ルーキー高橋由の活躍もあり横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにガルベスが7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において審判に対しボールを投げつける暴挙でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わった。松井が2年連続1本差で逃した本塁打王を獲得した。更に打点王、最高出塁率のタイトルも獲得、吉村禎章・川口が現役を引退した。, 村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を上げた新人の上原浩治や前年西武を解雇されたドミンゴ・マルティネスをシーズン途中に獲得し清原の穴を埋める活躍もあり2位となったがチームの貯金は15個。上原がこの年挙げた貯金が16と上原以外の投手陣に課題の残るシーズンとなった。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍した。, 20世紀最後の年、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得するなど大補強を敢行。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋由を擁した打線はシーズンで投打ともに他を圧倒。投手陣も工藤・メイ・ルーキーの高橋尚成の左3枚がしっかりローテーションを守る。9月24日の対中日戦(東京ドーム)では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡智宏がサヨナラ本塁打を放ち4年ぶりのリーグ優勝を劇的に決めた。結果的には2位中日に8ゲーム差をつけた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王が1995年から率いるダイエーで、2連敗からのスタートだったがその後シーズンで不本意な結果だった上原・斎藤の奮闘もあり4連勝。4勝2敗で19回目の日本一を達成し20世紀の最後を締めた。, シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが投手陣の不振で2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、「終身名誉監督」に就任した。それと同時に槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして村田真一捕手が引退した。長嶋監督の後任として、ヘッドコーチの原辰徳が就任した。, 原ヘッドコーチが監督に就任、原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を立て直し不振で苦しんでいた上原、桑田が復活。故障がちで一軍に常時いられなかった河原を抑えに抜擢し年間通して活躍。松井が50本塁打を放ち打線を牽引。1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初でシリーズとして12年ぶりの4連勝のストレート勝ちで日本一に輝いた。シーズンオフに松井がFA権を行使してメジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。, 松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣が崩壊し整備できず3位に終わった。6月27日には球団史上初めて6月での自力優勝消滅を記録、シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。また、この頃から巨人戦視聴率の大幅な低下が起こり始めた[18][19][20][21]。そして9月26日、原監督は責任を取り監督を辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった[注 9]。辞任に関して、原監督と渡邉恒雄オーナーとの確執がマスメディアに報じられた。この混乱が原因で川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して現役引退も撤回、中日に移籍した。後任監督に堀内恒夫が就任した。, V9時代のエースだった堀内が監督に就任、生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録[注 10]を樹立。しかし、259本塁打の新記録を達成したものの100打点を挙げた打者が一人もいなかったことやチーム最多盗塁が鈴木尚広の9と機動力をあまり駆使しなかったことで繋がりを欠いたことや防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学の投手一場靖弘への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。テレビ視聴率も前年より低下した[22]。, ポジション争いをやめさせ、打順を固定することにより1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由、二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、抑えとして期待された新外国人のダン・ミセリが極度の不振で4試合に登板したのみで退団するなど、投手陣の崩壊やチームの空中分解により、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また、前年の球界再編騒動および原監督の辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が顕著化する。そのため日本テレビを筆頭に各キー局が地上波巨人戦中継の延長短縮や中止、中継自体も深夜枠での録画放送および衛星放送への移行が進むようになった。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神のシニアディレクター星野仙一の名前があがった。星野シニアディレクター招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野シニアディレクターは9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月5日、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し(堀内自身は解任されたと述べている)[23]、翌年からの新監督として原が3年ぶりに復帰することを正式に発表した。, 第1次では同じ時期に現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だったが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫を招聘(しょうへい)、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(ロッテ)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。, チーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに倣い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁ベースコーチとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチに配置転換することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。, 5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5,000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からクローザーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、清水隆行の遊撃内野安打と、宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている[注 11]。球団は、期待不足に終わったジェレミー・ゴンザレスとジェレミー・パウエル、デーモン・ホリンズの外国人3選手を自由契約とすると、ロッテから自由契約となった藤田宗一、横浜から自由契約となったマーク・クルーン、ヤクルトから自由契約となったセス・グライシンガーとアレックス・ラミレスを獲得した。, オープン戦から主力選手の故障、台頭した坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びができず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原が共に不調で二軍降格するなど戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏したのに加え、投手陣では2年間1軍登板のなかった越智大祐がリーグ2位の68試合に登板し150キロ近い速球と落差のあるフォークで101三振と12球団で唯一かつ40試合以上登板したリリーフ投手の中で最も多く三振を奪ったのに加え、山口鉄也がリーグ3位の67試合に登板し、3.91の防御率だった昨年を大幅に上回る2.32と結果を残し球団史上初の全てリリーフ登板で二桁勝利を挙げる11勝、6月1日に福岡ソフトバンク戦とのビジターゲームで当時日本球界最速の162キロをマークしたクルーンが61試合登板で球団新記録の41セーブを挙げた。また7回から9回の3イニングに喫した失点数は前年は168失点だったのがリーグ最少の132失点。投手を5人以上起用した試合は前年10勝27敗2分け、勝率.270だったのが29勝20敗2分け、勝率.592とリーグ断トツの成績を残し強力中継ぎ陣が確立された事で抑えから復帰した上原を含めた先発陣の不調[24]をリリーフ陣がカバーした。また打撃陣ではオガラミ弾と呼ばれる3番・小笠原と4番・ラミレスのアベックホームランが15試合あってそのうち7月8日に阪神に敗れて以降最終戦までの66試合で11試合も記録し、7月9日から最終戦までのホームランが100本と198本のホームランにモノを言わせた強力打線でパ・リーグを制した渡辺久信監督率いる埼玉西武ライオンズをも凌ぐ破壊力[25]とリーグ2位の78盗塁を記録する機動力野球を武器に後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝、最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録する等猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差[注 12]からの逆転優勝を果たし、1989年 - 1990年以来となるリーグ2連覇を達成した[26]。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したので、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。クライマックスシリーズでは、第2ステージで昨年ストレートで敗れた中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来6年ぶりの日本シリーズへの出場を決めるが、リーグ連覇を決めた試合の6回表にキャプテンの阿部がセカンドの牽制球を頭から帰塁した際に右肩を負傷してしまい、診断の結果右肩関節挫傷で離脱。阿部の出場機会が減った事が祟ってか先に日本一に王手をかけながら東京ドームに戻っての最後の2戦を落としてしまい、3勝4敗で埼玉西武に敗れた。日本シリーズ後上原がFA宣言してメジャーリーグ・ボルチモア・オリオールズへ移籍し、トレードで日本ハムからマイケル中村・工藤隆人を獲得したが、その2人との交換トレードで坂本の台頭や足の故障、スキャンダルで出番が激減した二岡・不調でシーズンの大半を二軍で過ごした林昌範が移籍した。また清水が移籍を志願し金銭トレードで西武へ移籍し第2次長嶋体制時代から主力として支えてきた生え抜き選手が形は違えど相次いでチームを去る形になった。なおヤクルトを自由契約になったディッキー・ゴンザレスを獲得した。, シーズンは、創設75周年を迎えた。原監督が2009 ワールドベースボールクラシック日本代表監督に就任した事もあり、オープン戦は伊原春樹ヘッドコーチが監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、松本哲也を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、9月23日の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年から1973年のV9時代以来となるリーグ3連覇、33回目のセントラル・リーグ優勝を決める[27]。クライマックスシリーズでは、第2ステージで中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗で勝ち抜けて日本選手権シリーズに出場を決めた。1981年の後楽園シリーズ以来となった北海道日本ハムとの日本シリーズは、4勝2敗で勝利し2002年以来7年ぶり21回目の日本一を獲得した。11月14日には長崎で行われた韓国シリーズ勝者起亜タイガースとの日韓クラブチャンピオンシップに勝利し、日韓王者に輝いた。ドラフト会議では巨人を熱望してきた長野久義を1位指名で獲得した。, 開幕直後に前年限りで現役を引退しコーチとなっていた木村拓也が試合前の練習中にクモ膜下出血で倒れ急死、野手では亀井義行、投手ではゴンザレスが不調でグライシンガーも故障で長期離脱だったが、ルーキーの長野久義を加えた強力打線は相変わらずで開幕からしばらくの間は先発投手陣も好調であり、首位に立っている時期も長かったが、7月以降は相次いで好調だった先発投手陣が不調に陥り[注 13]、野手陣でも坂本と松本が調子を落としてしまう。また、この年のクローザーのマーク・クルーンが不振に陥り、抑え投手がたびたび変わるなど中継ぎ投手陣も安定しなかった。それでも最後まで首位争いに絡み続けるが、前述の投手陣の低迷とナゴヤドームの中日ホームゲームで2勝10敗と大きく負け越したのが響き、優勝した中日と1ゲーム差ながら3位に終わり、リーグ4連覇を逃した。クライマックスシリーズでは第1ステージで阪神に2連勝し勝ち上がるものの、続く第2ステージでは中日相手に1勝4敗で敗れ敗退している。この年、南海ホークスを経験した最後の現役選手であった大道典嘉が引退した。また不安定な投球が目立ったクルーンが翌シーズンの構想から外れ退団した。ドラフト会議では、中央大学の澤村拓一をドラフト1位で指名し獲得した。, この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で開幕が3月25日から4月11日に延期。開幕戦は山口県の宇部市野球場で行われ[注 14]、1952年のフランチャイズ制導入以後、地方球場で初となる巨人主催試合開幕戦となった。また電力の節電要請で4月の東京ドームの使用を自粛、延期になった分を含めて大幅に試合日程が変更となっている。この年から導入された統一球の影響を12球団で一番と言って良い程もろに喰らってしまい、小笠原とラミレスが不調に陥り、打撃陣全体の長打力も2010年までと比べると激減(特に本塁打)する等、打撃陣が不振に陥った。一方で投手陣はルーキーの澤村拓一が4月21日に初勝利を挙げるなど、先発投手陣が引っ張った。その反面、前半は抑え投手が固定出来なかったこと、阿部慎之助が開幕時にケガで離脱したこと、獲得した多くの外国人選手が活躍できなかったこともあり、オールスターまでの前半戦はBクラスに低迷することとなった。後半戦に入り抑え投手に久保裕也が固定できたことなどで8月に7連勝するなど調子を上げていく。終盤は阪神との3位争いとなったが、10月の阪神、中日との6連戦を5勝1敗として、クライマックスシリーズ進出を決め、最終的には首位から3.5ゲーム差の3位で終えている。クライマックスシリーズはヤクルトと対戦するが、先発投手が好投するも継投でつまづき1勝2敗で敗退している。打撃陣では長野が首位打者、藤村大介が盗塁王のタイトルを獲得している。11月11日、ヘッドコーチ人事を巡って清武英利球団代表が渡邉球団会長が不当に介入したとして渡邉球団会長を告発する問題が起きた。清武球団代表はこれを理由に18日付で職を解任されている(詳細は清武の乱参照)。このオフ、FAで横浜DeNAベイスターズから村田修一を、福岡ソフトバンクから杉内俊哉をそれぞれ獲得した。その一方でラミレス、グライシンガー、大村三郎、鶴岡一成らが退団した(ラミレスと鶴岡はDeNAに、大村とグライシンガーはロッテにそれぞれ移籍)。, 3月15日、球団が1997年から2004年度に6選手と結んだ契約でこのうち計27億円が最高標準額(2007年までは上限ではなく超えても構わないというのがプロ野球全体の理解であり、超過の場合に制裁措置と定められたのは2007年以降)を超過していたのではないかと朝日新聞の記事で報じられた。開幕序盤は球団史上初の開幕戦完封負けを喫するなど低迷し、4月4日の対広島戦(マツダ)に敗れ単独最下位となり[28]、開幕8試合で5度の完封負けで46イニング無得点を記録する[29]など、4月は2度の5連敗を記録した[30]。しかし、原監督は「必ず噛み合う様になる」と信じた通り、5月は6日の阪神戦から25日のロッテ戦まで破竹の10連勝(3分挟む)を記録、5月14日に勝率5割としている[31]。交流戦に入っても好調は続き、6月6日にリーグ首位に立ち[32]、6月16日の対楽天戦(Kスタ宮城) に勝利して、17勝7敗でセ・リーグ球団初の交流戦優勝を達成[33]。その後中日との首位争いとなるが、東京ドームで行われた6月29日からの中日戦をスウィープ(同一カード3連勝)して7月1日に首位に立つと[34]、前半戦を中日と4.5ゲーム差、貯金20の首位で折り返す。後半戦に入っても7月は14勝4敗3分け(勝率.778)と一気に駆け抜けると8月には6連勝と7連勝を記録、8月23日に優勝へのマジックナンバー30を点灯させ[35]、9月8日の対ヤクルト戦(新潟)に勝利してクライマックスシリーズ進出を決め[36]、1度も優勝へのマジックナンバーを消滅させる事なく9月21日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で勝利して3年ぶり34度目のリーグ優勝を達成[37]。最終的に86勝43敗15分で、2位中日に10.5ゲーム差。最終戦ではDeNAに2-1でサヨナラ勝ちしDeNA相手に東京ドームで無敗を記録した。打者では阿部慎之助が首位打者、打点王の二冠、長野と坂本が最多安打を獲得、投手では15勝の内海哲也が最多勝、杉内俊哉が最多奪三振、最高勝率の二冠を獲得した。チームとしても防御率2.16は、1966年の西鉄ライオンズ(2.13)以来の好成績となり、2年目の澤村が10勝、福岡ソフトバンクから移籍した杉内とホールトンが12勝と1990年以来となる二桁勝利の投手が4人誕生。ルーキーの高木京介が球団記録の29試合連続無失点を記録した。クライマックスシリーズファイナルステージでは2位の中日と対戦するが、3連敗で中日に王手をかけられ土俵際まで追い込まれた後に怒涛の3連勝という、クライマックスシリーズ史上初の3連敗からの3連勝で日本シリーズ進出を決める[38]。3年ぶりに実現した日本ハムとの日本シリーズは主将の阿部が負傷離脱するアクシデントに見舞われながらその阿部が6戦目で決勝タイムリーを放ち4勝2敗で3年ぶり22度目の日本一を達成[39]。アジアシリーズ2012では決勝戦で台湾のLamigoモンキーズに6対3で勝利し、初のアジア王者となった。これで交流戦、セ・リーグ、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズの全てで優勝し、日本プロ野球史上初の5冠を達成した。ドラフト会議では前年日本ハムの1巡目指名を拒否した東海大の菅野智之を単独指名で獲得した[40]。また東野峻をオリックスへトレードし、交換で阿南徹と香月良太を獲得した。, 開幕から球団タイ記録の7連勝を飾り[41]、5月5日の東京ドームでの対広島戦の試合前に長嶋茂雄終身名誉監督と巨人OBの松井秀喜の国民栄誉賞の授与式が行われている[42]。交流戦は13勝10敗の3位[43]。前半戦は2位の阪神と2.5ゲームの首位で折り返し[44]。8月9日に優勝へのマジックナンバー39が点灯[45]。9月7日に7年連続でクライマックスシリーズ進出が決定[46]。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れたため、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した[47]。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、巨人は首位を譲らなかった[48]。広島とのクライマックスシリーズファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた[49]。迎えた楽天との日本シリーズでは第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の田中将大にこの年初の黒星をつけタイに持ち込むが[50]、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退した[51]。この年のオフにFAで西武の片岡治大と広島の大竹寛、中日を自由契約となった井端弘和を獲得。, 球団創設80周年を迎えた。4月19日、キューバの国内リーグ「セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル」の中心選手であるフレデリク・セペダと契約[52]。同時に球団はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルとの友好関係を結ぶことを発表した[53]。シーズン序盤より投打ともに勢いに乗りきれず、交流戦に入る段階では首位の広島とは4.5ゲーム差の3位だったが、交流戦ではソフトバンクと優勝を争い、交流戦の最終戦でのソフトバンクとの直接対決に勝利し、2年ぶりに優勝を達成。6月を11勝5敗とし、6月8日に首位に立つと以降は首位から陥落することはなかった。8月には13勝13敗で一時は2位の阪神と0.5ゲーム差となるが、9月に入り4日にはこの年初めて優勝へのマジックナンバー22が点灯、翌日に消滅したものの、11日には16で再点灯。20日の対ヤクルト戦に勝利し、クライマックスシリーズ進出を決め、優勝へのマジックナンバーを2とした9月26日の対DeNA戦に6対3で勝利し、マジック対象チームの広島が阪神に敗れたため、3年連続通算36度目のセ・リーグ優勝が決定した[54]。なお打線では規定打席に到達しての3割打者がおらず、先発投手においては菅野と大竹寛を欠いた状態でCSに臨んだことが響き、2位の阪神とのCSファイナルステージではCS史上初の4連敗で敗退し、日本シリーズ進出を逃してしまった[55]。同年オフ、東京ヤクルトスワローズから相川亮二がFA権を行使して入団[56]、また横浜DeNAベイスターズから金城龍彦も入団した。さらに、テキサス・レンジャーズからマイルズ・マイコラス、アーロン・ポレダを獲得した。, 序盤はDeNAと首位を争う展開となった。4月15日に原監督がB型インフルエンザウイルスに感染し、当面自宅で静養となり監督代行を川相ヘッドコーチが務めることが発表された[57]。約1週間の休養を経て、4月21日の広島戦で復帰[58]。4月末、阿部、坂本、亀井が故障離脱、レイズから自由契約になっていたホアン・フランシスコを獲得した。交流戦では4年ぶりに負け越し11位に終わった[59]。6月後半に首位の座を阪神に明け渡すも、7月にはすぐに首位に復帰。しかし前半戦最後のカードの対横浜DeNA戦に3連敗を喫し首位から陥落、前半戦を2位で通過した[60]。7月18日、ニューヨーク・メッツ3Aからアレックス・カステヤーノスを獲得した。8月5日の対ヤクルト戦(神宮)において、公式戦通算10,000試合を達成した[61]。阪神、オリックス、中日に次いでプロ野球4球団目となった[62]。ちなみに試合は村田のホームランなどもあり、6-5で巨人がヤクルトに勝利。後半戦は阪神・ヤクルトとの熾烈な首位争いを演じていた。しかし、カステヤーノスらを補強しても相変わらず打線が不振で、首位に立つチャンスを幾度となく逃し、終盤はヤクルトや阪神の後塵を拝する事になる。そして9月27日に東京ドームでのヤクルト戦を1-2で落としてヤクルトの優勝マジック3を点灯させたことが決定打となり、10月2日にヤクルトの優勝が決定したことでリーグ4連覇への挑戦は失敗に終わり、レギュラーシーズンは2位で終えることになった。CS開幕前の10月5日に所属選手の野球賭博への関与を発表し告発[63]。クライマックスシリーズのファーストステージは、シーズン3位の阪神と対戦、2勝1敗で勝利する。そして迎えたシーズン1位のヤクルトとのファイナルステージに挑み、初戦こそキャプテン・坂本の2ランホームランなどもあり勝利を挙げたものの、2戦目以降は勝ち頭のマイコラス・菅野で落とし、打線も2戦目以降は規定打席越えの3割打者が1人もいなかった事を象徴する貧打、26イニング連続無得点などもあり3連敗した[64]。最終的には1勝4敗(アドバンテージ1敗含む)で、2年連続で日本シリーズ進出を逃す結果となった。なお、巨人が2年連続でCSファイナルステージで敗退したのはこれが初めて。そしてCS終了後、原監督は辞任を表明し[65]、10月19日、記者会見で原監督が監督退任を正式表明し、第2次体制の10年、第1次体制と合わせて12年間の監督生活にピリオドを打った[66]。次期監督として球団OBで野球評論家の江川卓や川相昌弘ヘッドコーチ[67]、高橋由伸打撃コーチ兼外野手[68]などが候補と報道された。10月22日、2016年シーズンから、一軍、二軍のほかに育成選手を中心とした三軍を編成することを発表[69]。10月23日、高橋由伸の新監督就任および2015年限りの現役引退が発表された[70]。同時に井端弘和と金城龍彦が引退し、それぞれ一軍内野守備・走塁コーチ、三軍打撃コーチに就任した。10月26日、高橋監督の就任会見が行われた。3年契約で背番号は現役時代と同じ「24」[71]。また、前監督の原辰徳が2016年1月1日付で、球団特別顧問に就任することが決定[72]。11月23日、この日行われたジャイアンツ・ファンフェスタ2015において高橋由伸の現役引退および監督就任セレモニーが行われた[73]。シーズンオフにはリーグ優勝・日本一奪回に向け補強を行った。埼玉西武ライオンズから脇谷亮太が古巣に復帰、長打復活のためにニューヨーク・ヤンキースから4番候補のギャレット・ジョーンズ(登録名:ギャレット)、千葉ロッテマリーンズから自由契約となったルイス・クルーズを獲得し、打線強化を図った。, チームは開幕3連戦(VSヤクルト)において3連勝スタートを切った。なお、巨人が新監督で開幕3連戦を3連勝するのは、1981年の藤田元司監督以来35年ぶり[74]。序盤は阪神・広島と首位争いを繰り広げるも巨人が4月は15勝10敗3分けと一歩先を行く展開が続いていたが、月が替わった5月は21日の中日戦から7連敗で急失速と前年同様打撃陣の低調で特に代打での打率と失策率が12球団最下位だった事や投手陣の見殺しや中継ぎ陣が打たれたり等が大きく響いて負けが込む様になった。交流戦は五分で終えるも6月10日のソフトバンク戦で同一カード3連敗を喫し借金生活に入ったのと同時期に広島の快進撃が始まると、首位を奪われてしまう。その後、首位広島を一時4.5ゲーム差まで追いつめたものの、8月7日の広島戦で7-6とリードしていた9回に澤村が菊池にサヨナラホームランを打たれて同一カード3連勝のチャンスを潰すとそこから広島が持ち直し再び差を広げ始め、8月24日に広島との直接対決で敗れた事でマジックを点灯させてしまい、その後負けが続き、広島のマジックを減らす手助けをする形となり、9月10日の対広島戦で敗戦し広島のリーグ優勝が決まってしまい、2年連続V逸が確定した。その後は終盤はDeNAとの2位争いとなるが、シーズン2位が確定。坂本勇人が初の首位打者になり、菅野智之が2年連続で最優秀防御率と最多奪三振を獲得し、澤村拓一がセーブ王になるもエース・菅野の勝利投手になる権利を3回も消滅させる悪い印象を与え、2桁勝利を達成したのは田口麗斗のみだった。クライマックスシリーズでは、クライマックス初出場の3位・DeNAと対戦。しかし、1勝2敗で1stステージで敗退し、5年連続のファイナル出場の夢は消えた。10月13日に足のスペシャリスト鈴木尚広が現役引退を発表した[75][76]。また、オフには、総額30億円をかけた大補強を敢行。ソフトバンクから森福允彦、DeNAから山口俊、元楽天のケーシー・マギー、日本ハムから陽岱鋼、抑え候補の新外国人としてアルキメデス・カミネロを獲得した。, 開幕5連勝と好スタートを切り、序盤は阪神と2位を争った。しかしこの間に、昨シーズンオフにFAで獲得した山口俊、陽岱鋼らFA補強組が不振や故障で相次いで離脱。5月中旬以降は負けが込みだし、5月25日の対阪神戦(甲子園)に敗れるとその後広島に3連敗を喫し、4連敗継続中に交流戦を迎えるが楽天、オリックス、西武と共に同一カード3連敗で負け続け、球団史上ワースト記録となる13連敗を喫した。6月、球団OB初のGMとして、鹿取義隆が就任した。7月中旬に山口俊が傷害事件を起こし、シーズン終了までの出場停止・罰金・減俸という非常に重い処分が科せられた。また、前半戦終了後、二軍監督の斎藤雅樹が一軍投手コーチ(ベンチ)に、ベンチ担当の尾花高夫がブルペン担当、ブルペン担当の田畑一也が前半戦から苦戦している広島専従スコアラー、後任の二軍監督に巡回打撃コーチの内田順三が就任することを発表した。