『ソドムの市』(ソドムのいち、 イタリア語: Salò o le 120 giornate di Sodoma, 「サロ、或いはソドムの120日」の意)は、1975年製作・映画祭上映、1976年公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画である。マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(フランス語原題 Les 120 Journées de Sodome, ou l'Ecole du libertinage)を原作としている。スカトロ描写や性器の露出などの場面が非常に多い。ただしそれは単なるパゾリーニの嗜好としてだけではなく、様々な現代社会への批判が込められているという。, パゾリーニは、原作では18世紀のスイス山奥の城館であった舞台を20世紀のイタリアに置き換え、この物語を現代における権力と個人の関係、消費社会のメタファーに作りかえた。その構成はダンテの 『神曲』 の構成を借りており、「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」の4つの章から成る。, 本作の完成後、パゾリーニ監督はローマのオスティア海岸で謎の多い死を遂げており、この作品が遺作となった。, イタリアが連合国に降伏した後、残余のファシストたちは、北部の町サロに集まり、亡命政権(イタリア社会共和国)を形成していた。このナチス傀儡政権の権力者たち、大統領・大司教・最高判事・公爵の4人は、自分たちの快楽のために、市町村条例を新しく制定する。その規定に従って美少年・美少女が狩り集められ、さらにその中から彼らの厳選した男女各9人が、秘密の館に連れ去られる。, 権力者たちは、そこで自分たちの定めた規則に従って、あらゆる淫蕩・変態行為に耽る。毎日、集会所で4人の語り婆たちのうち1人に猥褻な体験を話させることによって欲望をかきたて、少年少女たちを相手にその話を実行に移すのである。その変態行為は次第にエスカレートしていき、最後には死に至る拷問が待っている。しかし、犠牲者たち同様に狩り集められてきた館の少年警備兵たちは、苦悶する犠牲者たちを尻目に、ラジオの音楽に合わせてダンスのステップなどを踏んでいる。, 原案の執筆に協力した映画監督のプピ・アヴァティの述懐によると、企画当初はパゾリーニは一切関与していなかった。当初は『デアボリカ』(1973年)や『メリーゴーランド』(1974年)などの脚本家として知られるアントニオ・トロイジオらの発案によって、『性の告白』(1974年)や『課外授業』(1975年)などのエロティック作品で知られるヴィットリオ・デ・システィ監督によるB級ポルノ映画として企画された。しかし、原案執筆を依頼されたプピ・アヴァティらがマルキ・ド・サドの原作をもとに準備稿を作成すると、あまりに過激な描写が検閲を通らないと判断されたため、デ・システィが演出を拒否する事態となった。デ・システィ監督の降板後に、プピ・アヴァティがパゾリーニ脚本によるセルジオ・チッティ監督の『エロスの詩』(1973年)を見て、パゾリーニを『ソドムの市』の企画に参入させることを提案する。アヴァティとパゾリーニは、この時点で初めて出会うこととなった。パゾリーニの提案によって、時代背景をファシズム政権時代のイタリアに移した脚色が行われ、さらにアルベルト・グリマルディの製作およびパゾリーニ自身の演出によって、映画化されることが決定した[1]。, 当時のイタリアもまた欧米における学生運動が展開されていた時期であった。こうした状況下でパゾリーニは自らの意見を映画の様々な描写の中に込めている。スカトロ描写に関しては現代の消費文明、特に食物の浪費(飽食)を強く批判する意図があったと語り、また経済面でイタリアの主導権を握る北イタリアの文化が貧しい南イタリアへ浸食していることに対する批判でもあったという。また、舞台をナチ・ファシスト政権下のイタリアに設定したのは、左翼運動に反感を抱いていた右翼への攻撃が意図されていた。, 1975年8月26日、フェデリコ・フェリーニ監督の『カサノバ』などと共に本作のネガフィルムの一部がローマの現像所から盗まれた。パゾリーニはラッシュプリントからネガを複製して対処したが、画質の劣化は避けられず、本作の当該箇所は映像が粗いままとなっている[2]。, 1975年11月2日、本作を撮影し終えた直後のパゾリーニが、ローマ郊外のオスティア海岸で轢死体となって発見された。警察は、パゾリーニから性的暴行を受けた少年による犯行と断定し、逮捕した。しかしパゾリーニの遺体は、全身が殴打された上に、パゾリーニ自身の車で何度も轢かれており、ネオ・ファシストの暗殺とも噂された。, ローマ地方裁判所は、少年ペロージの単独犯行は不可能であるとして、未知の共犯者とともに行われた故殺とした。しかしローマ高等裁判所は、共犯者ありに関する条項を破棄した。そして、1979年に最高裁は、少年に殺意はなく正当防衛として9年7ヵ月の刑が確定した。, 2005年5月7日、実行犯とされた少年ペロージがイタリア・Rai 3のドキュメンタリー番組“Ombre sul giallo”に出演し「自分は、犯人グループから家族に危害を加えると言われ、やむなく罪を被った。実際は、他の数人の男によるリンチ(パゾリーニを「薄汚いコミュニスト」などと罵倒していたという)により、パゾリーニは殺された」と告白した。また、本作の脚本家でありパゾリーニの助監督を長く務めたセルジオ・チッティは、「フィルムの盗難も、殺害犯グループが仕組んだものである。パゾリーニは、フィルムの返還交渉のために犯行現場におびき出された」と証言している[3]。, Les 120 Journées de Sodome, ou l'Ecole du libertinage, Pupi Avati: Salò, tutto comincia con un mio script dal Marchese De Sade, https://web.archive.org/web/20050605003007/http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_06/g2005060316.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ソドムの市&oldid=79407405. salo o le 120 giornate di sodoma. 『虹は私たちの間に』新教出版社2008年,46頁より引用、さらに Boughton(1992). [15], 座標: 北緯31度12分 東経35度30分 / 北緯31.2度 東経35.5度 / 31.2; 35.5, 一般にソドムの罪の意で用いられる「ソドミー(sodomy、羅:sodomia)」の語が登場する最初の著作であるペトルス・ダミアニ(Petrus Damiani)の「ゴモラの書(Liber Gomorrhianus)」(1049年)では、ソドムの悪徳は(それ以前はそうではなかったが)もっぱら性的なふるまいに関するものとして理解されている。彼はそれを4種に分類しているが、ゲイのほか、相手を必要とするものも含め、いずれも非生殖的な行為となっている。ソドミーは当初から同性同士の性行為に限定されていないことに注意。『福音と世界』新教出版社 2017年3月号26頁より引用。なおジョン・ボズウェルによるとキリスト教会が一貫して同性間の性行為に敵意と不寛容を示し始めたのは13世紀に入ってからである。Boswell "Christianity, Social Tolerance and Homosexuality"(1980)301頁参照, 町の男たちに対するロトの提案は「わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。」(新共同訳)だった。このことからロトは客を差し出せと押しかけた男たちの目的が同性間性行為だとは考えていなかった可能性がある。 『虹は私たちの間に』新教出版社2008年,43頁を参照, 「エゼキエル書」16章49-50節『旧約聖書』新共同訳 (ここで言われるソドムの罪は、神の道から離れた傲慢、偶像崇拝、飽食と繁栄の中で社会的弱者に手を差し伸べようとしない怠慢さ・冷酷さ・正義の腐敗とされる。 『虹は私たちの間に』新教出版社2008年,36頁より引用), 「エゼキエル書」16章53-55節『旧約聖書』新共同訳 (エルサレムはソドム、サマリアとともに神に貞節を守るべき女性と娘にたとえられ、捕囚の身から解放される希望を与えるが、同時にエルサレムの罪はソドムやサマリアよりも重いことが明らかにされる。, 「ユダの手紙」7節、『新約聖書』新共同訳 (ここで実際に指摘されている性行為は、売買春と、「異なる肉」すなわち人間と天使という異なる種類の存在の間での性交のこと。『虹は私たちの間に』新教出版社 2008年 38頁より引用。例としてD'Angelo(2001). ソドムの市. Letha Scanzoni & Virginia Mollenkott, Is the Homosexuality My Neighbor?(1978)59も参照). 創世記19章と士師記19章の話の共通項として①町の人々が、「よそ者」である旅人にホスピタリティを提供しようとしないこと。②自分の家を宿として提供したのは、その町の人々にとっては「よそ者」の寄留者だったこと。③町の人々が詰め掛けてきて家を取り囲み、旅人を外に出すように要求したこと。④「アナシーム」「ヤーダァ」「イーシュ」「ラアー」の用語が使われていること。⑤男の身を守るために女を差し出して代理の辱めを受けさせるようにすること、です。 ソドム(ヘブライ語:סדום、英語:Sodom)とゴモラ(עמורה、Gomorrah)は、聖書に登場する都市。天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされ、後代の預言者たちが言及している部分では、例外なくヤハウェの裁きによる滅びの象徴として用いられている。また、悪徳や頽廃の代名詞としても知られる。, ソドムの罪(ホモ・セクシャルときにソドミー)[1]については、古来、『創世記』19章前半、特に19章8節のロトの提案内容[2]から推察して、甚だしい性の乱れが最大の原因であったとする見解が一般的である[要出典]。他に『エゼキエル書』[3]16章[4]49-50節において、次のように書かれる。「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。 彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである 」[5]。, さらに16章53節から55節では、いずれソドムとその娘たちを復帰させることを、神が示唆している。「わたしは、捕らわれた彼女たちを帰らせる。すなわち、捕らわれたソドムとその娘たち、捕らわれたサマリアとその娘たち、および彼女たちと共に捕らわれたお前たちを帰らせる。 お前は自分の不名誉を負わねばならない。また、お前が彼女たちを慰める結果となったすべての行いのゆえに、不名誉を負わねばならない。 お前の妹であるソドムと、その娘たちは元の姿に帰り、サマリアとその娘たちも元の姿に帰り、また、お前と娘たちも元の姿に帰るであろう」[6]。, 一方、旧約時代からの伝承を受け継いで編纂された新約聖書においても、「ユダの手紙」において「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています 」[7]との記載があり、ソドムやゴモラが「不自然な肉の欲」によって罰されたことを古代のユダヤ地方が伝承していたことが確認できる。クルアーンにも町の名前は出てこないものの、ほぼ同じ物語が述べられており、預言者ルート(ロト)に従わなかったために、彼に従ったわずかな仲間を除き滅ぼされた。その際、神に滅ぼされた他の民(ノアの洪水で滅んだ民や、アード族やサムード族(英語版)など)とは異なり、ルートの民(すなわちソドムの住民)は、偶像や他の神を崇拝する罪ではなく、男色などの風俗の乱れの罪により滅ぼされた[要出典]。なお創世記19章と士師記19章には多くの共通点のあることが指摘されている[8]。, ソドムとゴモラの廃墟は死海南部の湖底に沈んだと伝えられる。これは、「シディムの谷(ヘブライ語: עמק השדים‎ 英語: Vale of Siddim)」と、シディムの谷の至る所にある「アスファルト」の穴[9]に関する『創世記』の描写と、死海南部の状況が似通っていることなどから、一般にもそう信じられているが、その一方で、死海南岸付近に点在する遺跡と結びつけようとする研究者も存在する。, ソドムを死海南東部に位置する前期青銅器時代(紀元前3150年-2200年)の都市遺跡バブ・エ・ドゥラー(Bab edh-Dhra)、ゴモラをこの遺跡に隣接する同時代の都市遺跡ヌメイラ(Numeira)と考える研究者もいる。いずれも現代のヨルダン・ハシミテ王国、カラク県に位置する。なおこの都市遺跡の近隣には、天から降る硫黄と火からロトが逃げ込んだとされるロトの洞窟の遺跡(アラビア語: دير عين 'أباطة‎ UNGEGN式: Deir 'Ain 'Abata デイル・アイン・アバタ)がある。ビザンティン(東ローマ)時代に、ロトの洞窟の伝説地の上に教会が建てられたが、この教会の遺跡が現在残されている。教会の左手には、ロトが逃げ込んだとされる洞窟が実在する。, 創世記によると、この洞窟でロトと二人の娘の間に生まれた男の子二人[10]が、それぞれモアブとアンモンの民族の祖先となったとされるが、ロトの洞窟を含む前述の遺跡すべてが、かつてモアブと呼ばれた地、現代のカラク県(ヨルダン王国)にあることは、ソドムとゴモラ、ロト、そしてモアブの伝承を考える上で興味深い。上記の考古遺跡から出土した考古資料は、現在ヨルダンのカラク考古博物館(カラク城内)やアンマン国立考古博物館で見ることができる。, 創世記18章後半部(16節から33節)で、ロトのおじであるアブラハムが、ソドムとゴモラに関して事前にヤハウェと問答している。ヤハウェは、ソドムとゴモラの罪が重いという機運が高まっているとして、それを確かめるために降(くだ)ることをアブラハムに告げた。アブラハムはそれに応じて、正しい者が50人いるかもしれないのに滅ぼすとは、全くありえない、と進み出て言った。それに対しヤハウェは、正しい者が50人いたら赦(ゆる)すと言った。そこでアブラハムは「塵芥(ちりあくた)に過ぎない私ですが」と切り出し、正しい者が45人しかいないかもしれない、もしかしたら40人しかいない、30人、20人と、正しい者が少なくても赦すようにヤハウェと交渉をした。最終的に、「正しい者が10人いたら」というヤハウェの言質を取り付けた結果、ロトを救出し、ソドムとゴモラを滅ぼした。, ヤハウェの使い(天使)二人[11]がソドムにあるロトの家へ訪れ、ロトは使いたちをそれとは知らずにもてなした。やがてソドムの男たちがロトの家を囲み、「なぶりものにしてやるから」と言って使いたちを出すよう騒いだ[12]。ロトは二人の使いたちを守るべく、かわりに自分の二人の処女の娘達を差し出そうとしたが、群衆はあくまで男性の使いたちを要求する。使いたちは、ヤハウェの使いとして町を滅ぼしに来たことをロトに明かし、狼狽するロトに妻と娘とともに逃げるよう促し、町外れへ連れ出した。ロトがツォアル(ヘブライ語: צוער‎ 英語: Zoara)という町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。ロトの妻(ヘブライ語: אשת לוט‎)は禁を犯して後ろを振り向き、塩の柱(ヘブライ語: נציב מלח‎ ネツィヴ・メラー)に変えられた[13]。ヤハウェはアブラハムに配慮して、ロトを救い出した。, ニネベの遺跡で見つかったシュメール人の古代の天文学者が粘土板に残した円形の星座板には、ふたご座・木星などの惑星と、アピンと名づけられた正体不明の矢印が書きこまれており、この天体配置があった日の明け方の5時30分ころに、4分半かけてアピンは地上に落下したという記述が残されている。, アランボンド教授の解析により、この天文事象は、惑星の配置が粘土板の星座盤の位置と一致したことから、紀元前3123年6月29日であったと特定され、アピンの記述は典型的なアテン群小惑星の落下の記録であると結論付けた。衝突予想地点には、クレーターはなく、この小惑星はアルプス上空で空中爆発したであろうと推定されている。アランボンド教授はこの日、直径1.25キロほどの小惑星がアルプス上空のコフェルス(エッツタールの一部(de))で空中爆発し、破片が軌道を逆戻りする形で地中海一帯に帯状にばら撒かれたであろうと説明し、これはソドムとゴモラの事象のことであろうという説を述べている。さらに南アルプスの氷床コアの調査によって、紀元前3100年ころに急激な気温の低下があったという傍証的データが示されている。[14], またケレンサ・グリッグソンによると、死海に沿った平原の5か所の灰白色の町のすぐそばのエリアにおいて、ゴルフボールサイズの硫黄の玉が発見されている。これまでの20年間多くの標本が採取され、世界中の研究所に送られている。ニュージーランドのグレイスフィールドでのスペクトラケム解析において解析されたある試料は、硫黄含有量が98.4%であることが明らかになった。この純度の硫黄含有量は、この平原の5つの町以外には世界中のどこにも見られないと報告されている。創世記19:24には、「主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて」と書かれており、この硫黄の試料の量と純度の観測に基づき、その場所がソドムとゴモラであると結論付けている科学者もいる。 Walter Wink, "Homesexuality and the Bible". 『ソドムの市』(ソドムのいち、 イタリア語: Salò o le 120 giornate di Sodoma, 「サロ、或いはソドムの120日」の意)は、1975年製作・映画祭上映、1976年公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画である。