これは宋では金200㎏以上を購入できる貨幣価値に相当します。 日本は大量の銀を輸出していたことを示していると思います。が、これは「日宋貿易の交易品に金が含まれるかどうか」にどう関係している … 【出典元:https://ja.wikipedia.org/wiki/】 平清盛は、1118年に平忠盛の長男として京都に生まれました。桓武天皇の血を引く武家の出身です。 平氏は源氏と並ぶ有力な武家で、朝廷からも頼りにされていました。平清盛は、鳥羽天皇の親衛隊「北面の武士」に任命されます。 そうして、父・忠盛が亡くなると、平氏の棟梁となって一族を率いることになりました。 1156年、天皇家の継承争いに摂関家の争いがからみあって「保元の … そして、平氏と源氏は、徐々に政治に介入するようになっていきました。, 1160年に再び起こった政変「平治の乱」で、平氏は源義朝を倒しました。これで、平清盛は、もっとも武家のリーダーとなり、政治の表舞台に立ったのです。     平氏は源氏と並ぶ有力な武家で、朝廷からも頼りにされていました。平清盛は、鳥羽天皇の親衛隊「北面の武士」に任命されます。       香薬類(じん香・白檀香・紫檀香・薫陸香・丁子香など)、鳥獣類(おうむ・クジャク・羊・水牛・犬・猫・馬など)、唐織物、竹�   そんな平清盛の伝わる特徴を、紹介します。, 【出典元:https://ja.wikipedia.org/wiki/】   そうして、約5年にも渡る「源平合戦」が始まったのでした。             平安時代末期に活躍した武士で、貴族社会を終わらせる「源平の戦い」を引き起こす元を作った1人です。 金は1988年以降、金粉、インゴット等の未加工品、棒や板、線などの一次加工品に分類されましたが、1988年から2012年の累計で 未加工品は金の輸出数量の30.5%、輸入数量の94.4%、輸出額の48.8%、輸入額の93.5%を占めています。     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 15:05 UTC 版), 日本列島は最終氷期が終わったおよそ1万年前にユーラシア大陸から切り離され、以降は外の国や地域との交流を行うさいには海を渡る必要があった。農耕社会の前から交流は始まり、沿岸や島伝いに移動が行われていた[1]。弥生時代の後半から、北部九州と朝鮮半島南部との交易が盛んになった。弥生時代の重要な輸入品は朝鮮半島中南部の加耶[注釈 1]で産する鉄や青銅だった。古代の貿易は外交に結びついており、東アジアでは中国の冊封にもとづく朝貢が中心となった。日本列島においては邪馬台国による魏への朝貢や、倭の五王[注釈 2]による宋への朝貢が行われた[2]。, 律令国家の成立で国号が日本となり、朝廷による管理貿易が進むと、遣唐使のように外交使節に付随して貿易が行われた。航海技術の発達と、大陸の情勢の不安定化により、私貿易も次第に広まった。平安時代後期には平氏が日宋貿易によって経済的優位を得て、初の武士政権が成立した[3][4]。平安時代以降は砂金が輸出されて、東北や北海道からの産出が中心となった[注釈 3][6][7]。中国から輸入された品物は唐物と呼ばれて重宝され、西アジアや東南アジア由来の唐物もあった[注釈 4][4]。, 平氏が隆盛をもたらした日宋貿易は鎌倉幕府でも引き継がれ、輸出品は砂金、木材、そして火薬の材料となる硫黄などがあった[注釈 5][9]。宋の滅亡後は元との貿易や戦争があり、元ののちに建国された明には室町幕府が朝貢を行い、日本刀なども送られた[注釈 6]。中世から近代までは貿易用の貨幣として銀が世界的に重要であり、戦国時代には日本列島に灰吹法が伝わって生産が増えて、銀が東アジアを中心に流通した[注釈 7][12]。, 14世紀から16世紀には、倭寇と呼ばれる集団が活動する。倭寇は日本、朝鮮、中国の沿岸で密貿易や海賊、商品用の奴隷の捕獲などを行った。倭寇の原因には日本や高麗の戦乱、中国の明の海禁などがある[13]。また、インド洋経由でポルトガルとオランダ、太平洋経由でスペインが東アジアに来航して、南蛮貿易や朱印船貿易が行われた[14]。戦国時代には、日本国内や朝鮮半島で捕虜とした人間を取引する奴隷貿易も行われた[15][16]。輸入品は、古代末期から中世にかけて陶磁器が増え、宋銭をはじめとする中国の銅貨も輸入されて日本で通貨として用いられた[17]。中世から近世にかけては朝鮮半島の木綿や中国の生糸などの繊維製品が中心となった[11]。, 江戸幕府のもとで貿易が制限されて、四つの口と呼ばれた長崎、対馬藩、薩摩藩、松前藩が貿易を独占した。貿易の相手はオランダ東インド会社や、中国の明・清の商人、李氏朝鮮、琉球王国、アイヌだった。輸出品は貴金属の金、銀、銅が中心で、輸入品の支払いにあてられた。輸入品には生糸、砂糖、漢方薬、高麗人参などがあった[18]。貿易によって国内の貴金属が減少すると、通貨の貴金属含有率を下げる改鋳が行われた[19]。幕府は貴金属流出の対策として貿易量を制限し、現在は輸入代替と呼ばれる政策をとった[20][21]。, 18世紀後半から通商を求める諸国が日本に来航して、紛争となる場合もあった。アヘン戦争以降に来航が増加して、国内でも貿易の拡大や海外進出についての提案が出されるようになった。アメリカ合衆国との通商条約をきっかけに、欧米諸国によって開港が進められて、明治維新の一因にもなった[18]。, 産業革命以後は工業製品の貿易が中心となる。明治政府は幕末からの不平等条約の改正と外貨の獲得を課題として、工業化を進めて欧米諸国との条約改正を実現した。日本貿易の拡大のテンポは世界貿易の中でも早く、貿易額の対GNP比率は、企業勃興期には14%、日清戦争後は21%、日露戦争後は25%と急増した。貿易額は増加をしつつも貿易収支では赤字が続き、特に日清戦争・日露戦争の期間に大幅赤字となった[22]。, 第一次世界大戦中には輸出産業の発展によって産業の中心が農業から工業へと変化し、世界恐慌後には貿易に代わって植民地化やブロック経済による自給自足体制を推進した[23]。第二次世界大戦までの輸出品の中心は、綿と絹の繊維製品だった[24]。輸入品では戦略物資である石油が重要となり、アメリカ、イギリスをはじめとする連合国との開戦の一因となった[25]。植民地や併合地域では、資金調達のためのアヘン貿易も行われた[26][27]。, 第二次世界大戦後の復興から始まり、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)をはじめとする国際機関に加盟して、西側諸国として自由貿易を推進した。日本は大量生産体制を確立して、鉄鋼、自動車、家電の輸出を伸ばす一方で、輸出の増加は他国との貿易摩擦の原因ともなった[28]。輸入品では、重化学工業のための石油をはじめとする鉱業資源、衣料品、食料品、パルプ原料となる木材などが重要とされる[29]。, 世界の総貿易額の対GDP比は1960年代の24%から2000年代後半には60%以上に上昇する一方で、日本の貿易額の対GDP比は2000年代初頭まで20%前後で推移し、2000年代に20%を越えた。この要因は、アジア圏内の貿易の拡大と、原油価格の上昇とされている。1990年代以降はアジア圏内での産業内貿易が急伸して、日本の最大の貿易相手国は2007年にアメリカから中国に代わった[30][31]。日本はGATTののちに発足した世界貿易機関(WTO)にも整合した政策をとってきたが、WTOの原則に反する地域貿易協定が世界各地で増加するにともない、2002年以降は地域貿易協定の締結も開始している[32]。, 後期旧石器時代には、神津島の黒曜石が関東地域に継続して運ばれていたことが判明している。縄文時代の水運には丸木舟が使われ、硬玉の翡翠で作られた装身具が列島各地に流通して、石器は200キロから300キロの距離を運ばれている。黒曜石は旧石器時代と縄文時代を通して朝鮮半島やサハリンにも運ばれていた。日本列島では新潟県の糸魚川市周辺でしか産出されない翡翠の加工品が青森県の三内丸山遺跡で出土するなど、規模は小さいながらも広範囲で交易が行われていたことが推測される[1]。こうした交易は商業的な取り引きではなく、贈り物のやり取りによる互酬の面を持っていた[33]。, 弥生時代に入ると、大陸からの青銅器や鉄器の入手が盛んになる。日本では鉄鉱石からの製鉄が始まるのは6世紀後半、銅鉱石からの製銅が始まるのは7世紀であり、それまでは朝鮮半島中南部の加耶を中心に産した鉄や銅が原料として用いられた[注釈 8]。紀元前4世紀中頃には、玄界灘の有力者の副葬品に朝鮮半島製の青銅の鏡や武器が用いられている[35][注釈 9]。前漢の武帝が朝鮮半島に建設した楽浪郡には、倭人と呼ばれた日本列島からの人間も往来した。『漢書』地理志には「楽浪海中倭人あり」という記録がある[37]。楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されており、倭人はそれらを入手して壱岐島、対馬、九州北部へ運んだ[38]。弥生時代には準構造船が造られるようになり、帆も用いられていた[39]。, 海上交易の品物としては銅鏡、鉄製品、ガラス玉が重要だった。鉛ガラスは中国東北部、カリガラスはインドのアリカメドゥ(英語版)で生産が始まったとされ、ガラス玉は勾玉の材料にもなった。銅鏡は九州で大量に発見されており、500年に渡って重要な財とされた[40]。こうした大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(人間)を送ったとされる[41]。朝鮮半島の加耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』弁辰伝にある。九州北部、瀬戸内海、日本海側の海岸では中国の貨幣も出土しており、交易に用いられた可能性がある[42]。, 古代の貿易で東アジアの中心となったのは、中国の管理貿易である朝貢だった。中国は華夷秩序の思想にもとづいて近隣諸国・地域との冊封体制を構築した[43]。朝貢は商業的な利益が目的ではなく、周辺地域との政治的安定を得るために行われた。漢以降の中国王朝は、周辺地域から朝貢の品物を受け取るかわりに回賜と呼ばれる返礼品を与え、臣下として冊封した[注釈 10][44]。中国側では、優れた品が民間貿易で流通しないように規制をして、回賜の希少性を保とうとした[45]。のちには、日本も中国の華夷思想をもとに外国を規定して、朝貢を行った(後述)[46]。, 中国が倭国を冊封した記録は後漢の時代にまで遡る。紀元前1世紀から1世紀にかけては九州北部に中国製品が多く、1世紀以降は東へ広がり、2世紀には東海や関東にも流通網ができた[47]。後漢の時代になると、黄巾の乱ののちに楽浪郡が衰退して交易圏も不安定になった。『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国の卑弥呼が倭の諸国を代表して魏に朝貢を行い、伊都国には一大率という役職が派遣された[48][49]。3世紀中頃から広範囲に分布した三角縁神獣鏡には同じ型から作られたものがあり、魏への朝貢に対して卑弥呼が受け取った銅鏡百枚にあたるかという点で、魏鏡説と倭製説に分かれている[50]。朝貢の記録は卑弥呼の跡を継いだとされる台与の代で途絶え、5世紀に倭の五王の1人目である讃(倭讃)が宋へ使節を送り再開している[注釈 11]。讃が朝貢をした目的には、宋から中国の官爵を得て国際的な地位を高める意図があったとされる[注釈 12][52]。また、倭の五王は百済から贈られた中国系の渡来人から漢字文化を取り入れて冊封関係に役立てた[53]。五王の最後にあたる武が朝貢したのちは、遣隋使まで中国と国交のない状態が続く。この時期に日本と交流が盛んだった地域は朝鮮半島の百済、加耶、栄山江流域だった[54][55]。, 日本列島では、ヤマト王権の成立前には邪馬台国のほかにも九州北部の奴国や伊都国、瀬戸内海では吉備氏が半島と貿易をしていた。3世紀には倭国は倭錦や真綿などの絹製品や九州北部の穀物を輸出し、朝鮮半島からは加耶で産する鉄が輸出された。『魏史』倭人伝には、3世紀頃に壱岐島や対馬が市糴(穀物貿易)を南北で行なっていたと記述がある[注釈 13]。これらの地域の首長はヤマト王権の成立後も独自に半島と交流を続け、時には協調した[57]。, 古墳時代の頃の朝鮮半島は、東部の新羅、西部の百済、北部の高句麗の3国のほかに南部の加耶、西南部の栄山江流域などに分かれていて、それぞれ協調や対立をしつつ日本列島と交流した。中でも百済とは贈答が盛んとなり、百済から贈られたとされる七支刀は石上神宮に現存する。朝鮮半島からは工芸品や技術者、倭国からは兵や軍船、武器、穀物、繊維品が贈られた。朝鮮半島から日本列島に来た渡来人には工人もおり、4世紀に帯金式甲冑、4世紀後半に馬具が製作されるようになり、農具や工具も輸入された[57]。ヤマト王権と吉備氏との間で吉備氏の乱が起き、ヤマト王権と北部九州の筑紫君磐井との間では磐井の乱が起きた。これらの紛争は、朝鮮半島との外交や貿易をめぐる対立を原因とする説もある[58][59]。, 日本列島と朝鮮半島南部をつなぐルートとして、博多湾と洛東江の沿岸に交易地が発展して交易港が建設された。『魏志』倭人伝によれば、朝鮮半島北部の帯方郡から南下して狗邪国から海を渡るルートが記録されている。ヤマト王権が成立すると金官国との交流が増え、畿内と金官国を直接つなげる沖ノ島のルートが栄えた。九州北部ではこれに対して玄界灘を拠点とする。瀬戸内海は九州と畿内を結ぶルートであり、吉備氏をはじめとする豪族が朝鮮半島と交流した[60]。, 朝鮮半島南部の多島海の中央に位置する泗川勒島遺跡には、弥生中期から後期の弥生土器も出土しており、日本列島で鋳造鉄器が見つかり始める時期と一致する。金海湾に面した狗邪韓国の金海官洞里遺跡や新文里遺跡には日本列島の土師器系の土器があり、鉄を輸出して成長した[61]。壱岐島の原の辻遺跡は船着場を備えた交易地であり、中国の銅貨である五銖銭の他に中国製の銅鏡や鉄器、朝鮮南部の土器が出土した[62]。博多湾に面した西新町遺跡は3世紀後半から栄え、朝鮮半島系の土器やかまど、鉄器、鉄器、ガラス玉の鋳型、西日本各地の土器が出土しており、日朝の交易港とされる[63]。交易地だった亀井遺跡では日本最古の石の分銅が出土しており、計量に用いられたとされる[64]。奈良盆地の纒向遺跡には外来の土器や列島各地の土器が出土している。邪馬台国の卑弥呼の時代には、大陸との貿易は伊都国を中心として行われ、西新町遺跡などの交易地が栄えた。一大率は、魏や朝鮮半島から運ばれた鉄などの物資を各地の首長に配分した[49]。, 律令国家の成立によって、各地域の豪族や首長が行なっていた貿易は、朝廷による独占管理が進む。律令法で貿易のルールが定められ、外国の使節は蕃客と呼ばれて、貿易の順序は(1)贈答形式の貿易、(2)官司の先買、(3)貴族の購入、(4)蕃客の日本製品購入で処理された。日本から外国への貿易は遣外使節と呼ばれる使節が行い、遣外使節以外の渡航は禁止された[66][注釈 14]。国号は倭国から日本へと変わり、渤海や奄美群島との間で朝貢も行われた。日本最初の仏教寺院である飛鳥寺の造営においては、人材や物資の面で百済や高句麗の支援があった[65]。貿易は外交上の競争の場ともなり、使節の来航時には貿易品の質や保有量の誇示も行われた[注釈 15][68]。, 7世紀から日本は遣隋使を送るようになる。隋が滅んで唐が成立すると、国際都市となった長安から商品や知識が東アジア各地に広まっていった[注釈 16]。これをうけて遣隋使は遣唐使と改称され、交流が続いた[70]。『隋書』倭国伝と『日本書紀』で記述の違いがあるが、遣隋使は4回が派遣され、遣唐使は停止したものを含めて第20次まであったとされる[71]。遣隋使や遣唐使に付随して貿易が行われ、日本側は冊封体制のもとではなく対等の関係で行おうとしたが、中国側は遣隋使や遣唐使を朝貢として記録した[72]。, 遣唐使は4隻または5隻の船で400人から500人を運んだ。百済舶とも呼ばれる遣唐使船は、近江国、丹波国、播磨国、備中国、周防国、安芸国などの地方が命じられて建造した[注釈 17][73]。日本が百済に味方をして唐や新羅と戦ったことが影響して遣唐使は中断するが、再開されると唐との交流が増え、制度や漢字表記などの文化面ではそれまでの朝鮮半島に代わって唐の影響が強まった[54][注釈 18]。, 遣唐使のメンバーや物品のリストは『延喜式』に記録があり、日本からの輸出品は繊維製品(絁、真綿)、鉱物(銀)、油の大きく3種類に分かれていた。これらは国内で納税されたものが中心で、のちに和紙や砂金も加わった[注釈 19]。いずれも素材としての質を評価された品物であり、物品貨幣としての面を持っていた[76]。, 遣唐使によって、日本に大量の文物が輸入された。輸入品には漢籍や仏典などの書物、仏像などの美術工芸品、沈香などの香料や薬物、動植物がある。漢籍は1600種類で1万7000巻弱、仏典は一切経をはじめとして早くから輸入されて転写された。ミカンや茶のように日本の食文化や喫茶文化に影響を与えたものもある[77]。スキタイに由来するペルシアの剣であるアキナケスは波斯国剣と呼ばれ、平安時代には真如親王が長安から贈った波斯国剣が鳥羽宝蔵に収められた[74]。輸入品には猫もおり、唐猫と呼ばれて珍重された。宇多天皇は太宰府の役人から献上された唐猫について日記に書いており、『寛平御記』に記述がある[78]。, 平安時代にはこうした舶来品や、舶来品のような様式の品物を指して唐物という言葉が使われるようになる。唐物は朝廷が管理して臣下へと再配分され、唐の滅亡後も唐物という語は使われ続けた[79]。唐物の先買権が朝廷にあるため、例えば貴族が新羅の輸入品を買う際には、買新羅物解(ばいしらぎもののげ)という文書で申請をしていた[80]。当時の輸入品には正倉院の宝物として現存するものもある[81]。, 弥生時代から平安時代の南西諸島は、奄美大島と喜界島を中心にヤマト王権や隋・唐と交流した。掖久人が入貢したのちに南島の使者が訪れたという記録が『日本書紀』や『続日本紀』にある[注釈 20]。奄美諸島の土器は日本列島の土師器の影響を直接に受けており、沖縄の土器は6世紀から7世紀にかけて奄美の影響が見られるようになる[82]。, 屋久島以南の産物としてアカギとヤコウガイがあり、海上交易の重要な品物だった。ヤコウガイは奄美諸島を中心に加工されて、7世紀にはヤマト王権へ輸出されて螺鈿細工などに用いられた。ヤコウガイは隋や唐との貿易でも用いられており、中国の銅銭である五銖銭や開元通宝が各地で発見されている。唐では螺鈿細工が発達しており、ヤコウガイが大量に求められていた。ヤコウガイ貿易によって奄美諸島には鉄器が輸入し、久米島にはヤコウガイの加工場があり、周辺から集めたヤコウガイを唐やヤマト政権に輸出して、輸入した物産を再配分していたと推測される。鉄器のほかに南西諸島にはいない豚も遺跡で発見されている。沖縄諸島では、ゴホウラやイモガイが交易に用いられて、装身具の貝輪にも加工されていた[83]。, 高句麗が滅んだのちには渤海が建国され、朝鮮半島をめぐる情勢が不安定になると、日本は渤海との交流を深めた。渤海側の使節である渤海使が到着し、日本側では朝貢を求めたとして歓迎して、遣渤海使も派遣された[84]。渤海使を迎えるために、太宰府の他に出羽国の秋田城、越前国の松原客館、能登国の能登客院なども使われたとされる[85]。渤海は薬用人参や毛皮、麝香などを輸出し、日本は絹・綿などを輸出して、渤海使は34回続いた。しかし日本にとっては回賜の負担が大きいため、朝貢を12年に1度と定めた[86]。, 律令国家の成立時点では、列島周辺で遠洋航海をする民間の貿易商人が存在していなかった。そのため律令には民間の貿易商人についての条文もなかった[87]。唐では安史の乱が起きたのちに政情が不安定となり、朝貢以外の私貿易が増加する。唐や新羅の海商や、新羅で海賊対策をしていた武人張保皐のような人物が私貿易に参加し、日本からも唐や新羅の商船に同乗して私貿易に参加する者が現れた[注釈 21][88]。貿易増加の流れを見た朝廷は、それまで蕃客との間で行われてきた管理貿易を商人にも適用することを決めた。臨時の使者である唐物使(からものつかい)が唐物を買い上げるために太宰府に派遣され、のちには唐の商船に同乗する入唐使(にっとうし)が派遣された[89]。しかし、民間の貿易の増加で貴族が唐物を買い漁ることも増え、朝廷は禁制を出すが唐物の先買権や独占が維持できなくなる[90]。9世紀中頃以降には青磁を中心とする陶磁器の輸入が増加した。こうして遣唐使の派遣がなくなった後も貿易は続いた[注釈 22][91]。, 黄巣の乱以降に中国は分裂状態となり、これを統一したのは宋であった。日宋貿易によって博多には大唐街と呼ばれる宋国人の居住街も形成されて、これに関心を寄せた平忠盛が輸入品を朝廷にもたらして権力を持つ。忠盛は肥前国の神崎荘で日宋貿易を行い、唐物に関心が高い鳥羽院の近臣となる。忠盛の息子の平清盛は肥後国の国司となったのちに瀬戸内海の安芸国や播磨国の国司、そして大宰大弐などの地位について日宋貿易を支配下におく。清盛は福原の大輪田泊を改修して貿易を振興し、そこから得られる利益をもとに平氏政権を磐石にした[92]。こうして宋との関係は活発になり、宋船が瀬戸内海に入って大輪田泊で取り引きを行うようになると、大宰府の利権は減少した[注釈 23][93]。北宋との貿易については、成尋の旅行記『参天台五台山記』にも記されている[94]。, 日本は絹織物や陶磁器などを輸入した。12世紀頃からの交易の様子は、福岡市内の博多遺跡群から出土した、浙江省の龍窯で大量生産された龍泉窯産をはじめとするおびただしい数の青磁、白磁などの輸入陶磁器に反映されている。また、12世紀中頃から、銅貨である宋銭がもたらされると日本国内でも使われて流通した。日本の輸出品としては砂金が重要であり、砂金の流通は陸奥国の奥州藤原氏が主導した。藤原清衡は出羽の港を改修して唐物を平泉に輸入し、平泉を拠点とする奥州藤原氏は都に金を送る一方で独自に博多と交易を行った。奥州藤原氏によって中尊寺、毛越寺、無量光院などの寺院にも唐物が使われ、源頼朝の出兵まで平泉は繁栄した[6]。奥州藤原氏は北海道にも進出しており、中尊寺金色堂で昭和の大改修が行われた際、金箔の砂金には陸奥だけではなく北海道の日高の砂金が用いられているという指摘もあった[7]。, 日本本土が古墳時代だった当時、北海道は続縄文文化と呼ばれる歴史区分であり、「続縄文人」は後のアイヌ文化の担い手の祖先である。天智、天武、持統、文武朝には、彼ら北海道の住民は和人と交易をともなう交流があり、和人にはエミシとも呼ばれた。サハリンで暮らしていたオホーツク人は道北と道東に移住し、続縄文人とは対立をしながら距離を保って生活した。オホーツク人は唐では流鬼と呼ばれ、唐には朝貢でクロテンの毛皮を送りつつ、日本列島での交易も求めて南下した[95]。奥尻島や津軽、佐渡島にもオホーツク人が訪れている。そのころ本州では、越国守である阿倍比羅夫が遠征を繰り返しており、『日本書紀』の記録から北海道や奥尻島へ遠征したという説が有力とされている[注釈 24]。比羅夫は粛慎と接触をはかり、沈黙交易を行おうとしたが交渉は成立せず、粛慎との戦闘となった[注釈 25]。続縄文人の居住地や交易地からはロシア沿海州の錫製の耳環が発見されており、続縄文人とオホーツク人は対立しつつも沈黙交易などで交流をしていた[96]。, 陸奥国では、和人は国府から繊維製品や鉄器、和同開珎、装身具を送り、エミシからは熊の皮、昆布、砂金、馬、奴隷などが送られた。陸奥の国司をはじめ一般人もエミシとの交易を行っており、禁令が出されている。遣唐使において日本側が蝦夷地の人間を帯同したこともあり、これは中国の華夷秩序をもとにして、日本に朝貢する地域として蝦夷地を位置づける意図があった[97]。7世紀以降、北海道では続縄文文化に続く「擦文文化」の時代を迎えるが、9世紀以降、擦文文化人と奥州藤原氏との交易が活発となる。奥州藤原氏は遠方から砂金を入手するために北海道にも居住地を建設しており、擦文文化人は砂金のほかに矢羽に用いるオオワシの尾羽や海獣の毛皮、鹿皮や干鮭を送った。苫小牧では平泉が最大の消費地だった常滑焼が発見されており、砂金の産地である北海道の胆振と日高の擦文時代の集落跡では、新羅産の銅鋺が発見されている。これらは北海道で生活した藤原氏が使用した品物や、擦文文化人が藤原氏から入手した品物と推測されている[98][99]。, 当時の貿易は重要な外交事業でもあるため、海外交流や貿易の施設として鴻臚館が設置された[注釈 26]。磐井の乱の後には、那津に外交施設として那津官家が設置された。遣隋使の頃に筑紫太宰が駐在して太宰府が設置されると、鴻臚館の行政機能はなくなり筑紫館と呼ばれた。畿内の港がある難波津には難波館が設置され、平安京には主に渤海使のための鴻臚館があった[100]。, 遣唐使では、船は難波津を出港して北路か南路を進んだ。北路は新羅を通るルートであり、南路は五島列島を経由するルートだった。当初は北路が選ばれたが、日本と新羅の関係が悪化すると南路が選ばれるようになる。五島列島は、大宰府と対馬を結ぶ拠点でもあった[101]。, 宋の時代になると、宋の商人は博多や敦賀に来航し、民間レベルでの貿易を行った。当時の商人として王則貞などの名が知られている。宋の貿易船の船長は綱首と呼ばれ、博多に滞在する博多綱首たちは地元の寺社と友好関係を結んで保護を受けた。綱首の中には日本で土地を所有する者もいた[102]。初期の陶磁器は、長沙市の長沙窯、浙江省慈渓市の余姚窯、周辺の窯で産する越州窯の青磁が揚州や寧波から鴻臚館へと運ばれた。奥州藤原氏は平氏とは異なるルートを用いたため、北方貿易とも呼ばれる[103]。11世紀から12世紀にかけて但馬国や越前国に来航や居留をした唐人の記録もある[104]。, 日本の貿易史のページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 日本刀は室町時代を通して20万本と大量に輸出されたが、大量生産が品質の低下を招いて価格が下落した, 回賜では、質量ともに朝貢をはるかに上回るものを与え、朝貢をした国は受け取った品物を分配して支配力を強化した。朝貢を受ける側は、より多くの回賜を贈らなければならず、財政を圧迫した。, 讃は倭国王および安東将軍または安東大将軍の官爵を得て、宋の外臣として倭国に将軍府を設置した, 国内交易については、各地の首長が独自に交易を支配していた状態から管理を強める。市を管理する, 最後の遣唐使を送ったのちに来航した商船としては、張保皐の関係者をはじめとして、博多に来た大唐国商人の欽良暉の交関船(貿易船), 比羅夫の遠征の目的は、交易圏の拡大、オホーツク人の排除による北方の安定化、アイヌとの交易の管理などがあげられる。, 官貿易では価値が低い品物は積荷の15分の2が徴税され、15分の5が官貿易の対象となった。負担の大きさを理由に商船が減ったために徴税額が19分の1となり、官貿易は衰退した。, 遣明船は『真如堂縁起絵巻』に描かれており、遣明使の記録には『笑雲入明記』、『壬申入明記』、『初渡集』、『再渡集』などの入明記がある, 高麗で蔑視されていた水尺や才人と呼ばれる人々も倭寇に参加した。倭寇との戦闘で名を馳せた高麗の, 南西諸島の海岸は珊瑚礁が多く、大型船に向かない場所が多かった。当時の那覇は独立した島で、珊瑚礁のない内海があり、良港の条件を備えていた。島には琉球人や倭人の他に、貿易のために華人や朝鮮人も生活していた。琉球本来の信仰の他に禅寺などの宗教施設も建設され、のちに禅僧は貿易にも貢献する, カピタン・モールの船にはマカオの商人が委託商品を積み、カピタン・モールは手数料の1割を徴収した。官許船や定航船は当初, フロイスの『日本史』には、豊薩合戦で捕虜となった女性や子供が1人あたり2〜3トスタンで売られたとある。ポルトガルへと運ばれた日本人奴隷は400トスタン以上で取引された, 文禄・慶長の役における奴隷貿易の様子は、従軍した僧の慶念による『朝鮮日々記』や、興福寺の僧による『, 投銀の賃借期間は約半年で、利率はリスクを考慮して30%から40%と高利であり、日本人の海外渡航が禁止されたのちの中国船では80%となった。, 各藩でも薬材の確保や新たな食物栽培の研究を行う事は飢饉や疫病による社会不安を抑えたり、産業の振興を図る上で有効と考えられ、薬園を設置するとともに、植物に詳しい, 幕府がオランダ風説書から得た情報には、アヘン戦争や、アメリカの日本来航計画の情報などもあった。, シャクシャインの戦いではアイヌ側につく金掘りもいたため、松前藩は和人の金掘りの渡航を禁止した。, 取り引きにおいて日本や清の貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された。, 日本の金銀交換比率は1:5だったが、諸外国ではおおむね1:15の交換比率が成立していた。このため外国商人は日本へ銀を持ち込んで、金と交換し、上海などで再度銀と交換するだけで巨利を得ることができた。, 江戸時代の後期になると豪商が増え、各藩では商業の中心で幕府の資金源である大坂を介在せずに取り引きをしようという動きや産業振興が進んだ。, 総合商社が出現した原因は、(1)先進国との競争で大規模な商社が必要とされた点、(2)外国為替取引などの補助業務が未発達であり自営が必要だった点、(3)大規模な商品取引が必要だが大量に輸出入できる商品がなかった点、などの説がある。, 金本位制では、各国の通貨は金との交換比率が決められており、通貨量は各国が保有する金の保有量に制約される。貿易黒字国ではインフレ圧力が高まって輸入の増加と輸出の減少が起き、貿易赤字国ではデフレ圧力がかかって輸出の増加と輸入の減少が起きて、輸出入による自動調整が作用すると期待されていた。, 経済成長率は大戦前の2.08%から7.9%に上昇し、経常収支黒字はGNP比で6%から7%に達した。, 1914年から1918年にかけての輸出額は、7億3000万円から20億3000万円に増加した。貿易外収支は、船舶の不足による運賃や傭船料、海上保険料などの上昇で約14億円の受取超過となり、合計で28億円の正貨が流入した。, 当時の海運では蒸気船の燃料となる石炭の補給が重要であり、九州で炭鉱開発と石炭輸出が急増した事情も、からゆきさんの渡航に関係している。, 1931年(昭和6年)には農村を中心として「娘地獄」と呼ばれるほど身売りが多発し、労働争議は戦前期で最高となり、東京帝国大学法学部生の就職率は26%、自殺率は死因統計開始以来の最高となった, この法律によって石油の輸入規制や特定企業への割り当て、価格統制、政府による強制買い上げの権利、外国企業の6ヶ月備蓄の義務が決定した。, 特需は、米軍や国連軍関連機関が物資の調達をドル払いで行うという特徴があり、厳密には国際収支の輸出入ではなく政府取引の軍関係の購入という扱いになる。, 外貨割当制によって重要な技術や機械の輸入で外貨を優先的に使い、一方で競合製品の輸入を制限して産業の保護と育成をした。, IMFの14条国は国際収支の赤字を理由に為替制限ができるが、8条国はそれができない。, ここでのベトナム周辺地域とはアメリカが対外軍事支出や援助を行なった韓国、台湾、香港、タイ、フィリピン、南ベトナムなどを指す。, 合意前に1ドル=240円だった為替レートは急速に円高が進み、1985年末には1ドル=約200円となり、, 実質実効為替レートの円高が、交易条件の改善を上回った場合は、輸出産業の収益性が悪化する。, 日本の直接投資の動機としては、(1)低コスト追求、(2)市場アクセスの確保、(3)天然資源の開発、(4)技術や情報の収集、(5)税や規制の回避、などがある。日本の直接投資の歴史は、欧米に対しては(2)、東アジアにおいては(1)が多かった, 日本の製造業の海外生産比率は1985年度の3.0%から1990年度の6.4%、2000年度の14.6、2001年度の16.9%と伸びていった。海外進出企業の海外現地法人売上高の割合も伸び、1985年度の8.7%から1994年度には20%、1997年度には30%となった, All text is available under the terms of the.