PRIDE(プライド)は、日本の総合格闘技イベント。1997年から1999年までKRSが1999年から2007年までドリームステージエンターテインメントが開催していた。現在PRIDE FC WORLDWIDE株式会社がブランド及び興行権を保有している。海外でのイベント名称はPride Fighting Championships(略称Pride FC)。, 2000年代前半の総合格闘技においては名実ともに「世界最高峰の舞台」であり、日本における総合格闘技人気の火付け役となった。また、アメリカのUFC、日本のK-1に並ぶ格闘技イベントに成長した。, さいたまスーパーアリーナの15周年記念では「PRIDE GRANDPRIX 2005」が最多動員記録として表彰された[1]。, PRIDEの主な開催イベントシリーズは、「PRIDE.」の後に通し番号が入る「PRIDEナンバーシリーズ」、数大会に分けたトーナメントによって優勝者を決定する「PRIDE GRANDPRIX」、実験的要素と日本対世界の対抗戦を軸にしてスタートし、途中から中・軽量級中心に特化した「PRIDE武士道」、大晦日に行われ、当日時間差放送ながらも、フジテレビ系列の地上波放送にて、ゴールデンタイムを含む長時間枠で放送された「PRIDE男祭り」の4つであった。, 1997年の「PRIDE.1」より数か月に1回のペースで「PRIDEナンバーシリーズ」のみを開催していたが、2000年の1月と5月に体重無差別級による「PRIDE GRANDPRIX 2000」を開催。, その後はまた、数か月に1回ナンバーシリーズの興行に落ち着くが、2003年には再び、今度はミドル級選手による「PRIDE GRANDPRIX 2003」を8月、11月の2大会に分けて行う。また、この年の10月に「PRIDE武士道」も初開催される。, そして大晦日の「PRIDE男祭り」は、オリンピックの格闘競技での金メダリストや、他格闘競技のトップ選手などのPRIDEデビュー試合の場として、またはその年に各PRIDEイベントで活躍した選手が一度に集うオールスター大会として開催され、全試合終了後にはカウントダウンイベントも行われた。, 2005年から始まったPRIDE武士道では、「中・軽量級」のみの試合を行う興行としてナンバーシリーズ、GPとの差別化が計られるようになったが、2006年11月5日のPRIDE 武士道 -其の十三-をもって同シリーズは終了し、それ以降のナンバーシリーズ、GPにおいて正式に中軽量級のウェルター級(83kg以下)、ライト級(73kg以下)が設置された。, その他の関連するイベント・大会としては、PRIDEへの登龍門を謳い二軍的位置付けだった「MMA THE BEST」シリーズ、東海テレビのテレビ番組「PRE-PRIDE」「PRIDE王」内企画の大会だった「PRE-PRIDE」シリーズ、興行的要素を一切排したアマチュア選手のための大会「PRIDEチャレンジ」がある。, そもそもPRIDEは、高田延彦とヒクソン・グレイシーの試合を実現するためだけに立ち上げられたイベントであった。きっかけは東海テレビ事業時代の榊原信行がUWFインターナショナルの名古屋大会の運営に携わり、高田延彦と深夜まで飲み明かしたことだったという。その10日後に偶然、東海テレビ事業と取り引きのあるH2Oがヒクソンの写真集を制作する話があり、ヒクソンと榊原が会うことになっており、ここから対戦の計画が始まった[2][3]。当初の企画書で、K-1の石井和義館長の名前が総合プロデューサーに名前を連ねていたのも、榊原が東海テレビ事業時代にK-1名古屋大会の運営をしていたためである[4]。 ランキングは以下の通りです。, 1位 バスケットボール 35人 年収:1億500万ドル(約112億円) 競技:サッカー 競技:サッカー 韓国で行われる平昌オリンピックの公式エンブレムはどんな意味を持つのか?また、公式マスコットはどんなキャラクターなのか?動画もありますので、是非ご覧ください。, リオデジャネイロ五輪で、オリンピック史上初となる難民五輪選手団が参加しています。開会式では、地元ブラジルの1つ前、206番目に登場。国際オリンピック委員会(IOC)から選ばれた選手たちは、観客からの声援と拍手のなか、マラカナンスタジアムを行進しました。, 仕事と恋愛の両立って難しいですよね。両方とも充実させたいけど、なかなかうまくいかないもの。だけど、良い恋愛をすると、相手の存在が心の支えになり、良い影響を与え合っているのかもしれません。 36 280 0: 9: 0900212 横山 航太: jbsmn シマノレ... p1: 1345: 9 1 1 27 50 225 0: 4: 1700238 武井 裕: jbart アーティ... p1: 1267: 36 65 36 20 0: 10: 0400843 鈴木 譲: jbblz 宇都宮ブ... p1: m30: 1077: 9 65 50 1 36 … 8位 野球 1人 2位 アメリカンフットボール 31人 プロ野球 イケメン選手ランキング(2018) 第10位. 1997年7月22日、ホテルニューオータニ・シリウスの間で行われた記者会見で、10月11日に東京ドームで行われる格闘技イベント『PRIDE-1』のメインイベントで、『ヒクソン・グレイシー対高田延彦』の一戦を行うと両者会見に出席のもと発表された。ヒクソン対高田は、勝者に賞金2000万円が贈られる「ザ・ワールド・マーシャルアーティスト選手権」と銘打たれた。会見の時点で「PRIDE-1」はヒクソン対高田以外は何も決まっておらず、会見当日は他の対戦カードだけでなく、前売り券の発売日や試合開始時刻も発表されなかった。当初8月15日開催の計画で一人歩きしながら、結局何の発表のないまま自然消滅しただけに、マスコミは一抹の不安が残ったが、会見から2日後に主催のKRSから「開場午後3時、試合開始・午後5時」と発表するとともに、「我々は他のプロレスや格闘技団体と比べても、運営組織としては何ら見劣りするとは思っていません」とFAXで宣言し、2か月後に迫った大会開催に自信を持っていることを改めて宣言した。, 1997年10月11日に第1回大会「PRIDE.1」が開催され、高田延彦 vs. ヒクソン・グレイシーの試合で注目を集める。 7位 モータースポーツ 3人 巨人のイケメン選手ランキング(2019) では早速ですが、ランキング形式で発表していきまーす!! 第10位 丸 佳浩選手 第10位に選出させて頂いたのは、今年、広島からFAで移籍してきた丸選手!! 人 … 噂の大みそか格闘技イベント「やれんのか!」開催決定! 国籍:スイス, 2位 クリスティアーノ・ロナウド 「実力派プロデューサー 喜多村豊氏ロングインタビュー」『格闘技vsプロレス誰がいちばん強いんだ!』芸文社、2003年, https://twitter.com/nobu_sakakibara/status/683527551000522753?ref_src=twsrc%5Etfw, 【PRIDE】PRIDEスタッフ全員に解雇通知、事務所も閉鎖「ファンの皆様に申し訳ない」, Background Checks at Center of Multi-Million Dollar Pride Lawsuit, Former Pride Owners Sue Zuffa Holding Companies, Fertittas. 世界的に最も知名度が高いキックボクシングとして有名なk-1。国内外の歴代選手たちの中で、いったい誰が最強なのか、今回は、k-1を愛するファンの声を参考に調査したk-1選手の歴代最強ランキングを … 高田延彦、激白!「やれんのか!」を振り返る=『格闘技通信』発「PRIDEでやってきたあのスタイルを集約した形としては最後」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=PRIDE_(格闘技イベント)&oldid=79539543, 後頭部・延髄・脊髄への打撃攻撃(後頭部とは、頭の真後ろのことをいい、側面、耳の周りは後頭部とはみなさない), 故意にロープを掴んで離さない、また故意にロープに手、足を引っかけてはならない。上腕部分をロープに引っかける行為は即、注意とする。, 試合中、相手に対しダメージを与えると認められない無気力な攻撃、および膠着を誘発する動き, 試合中の選手による非人道的な行為(なお、この行為に対して審判団は、試合中以外にも注意や警告を出すことができる). 今宮健太(福岡) もっと上位かなと思いましたが、文句なしのイケメンですね。 ショートというポジションも相まって華があります。 今宮選手の守備 … アスリートの年収ってどのくらいか気になりますよね。 年収:6390万ドル(約68億円) 競技:サッカー 年収:6230万ドル(約67億円) 国籍:アメリカ, 8位 タイガー・ウッズ 前項で述べているが、当初は1回きりの開催予定であった。そのため「たった一つのプライド(誇り)」と言う意味を込めて「PRIDE.1」と命名された。しかし、「PRIDE.1」が好評であったため第2回開催が決定。大会名の意味を変えて1998年に「PRIDE.2」を横浜アリーナで開催した。その後はPRIDEの後に開催順に数字が続く「PRIDEナンバーシリーズ」を続々と開催した。, 初期には、スタンディングバウトルール、空手ルール、組み技ルールなど夢の対戦カード実現の舞台として、色々なルールも試行されたが、その後は総合格闘技ルールに一本化。立ち技のK-1に対して、立ち技も寝技もありの総合格闘技として認知された。, 「PRIDE.1」から「PRIDE.4」までは、実行委員会形式のKRS(格闘技レボリューション・スピリッツ)が母体となって運営。KRSは、名古屋の広告代理店(DSE前社長森下直人が在籍した名古屋の家電チェーン・エイデン子会社のハドック、パーフェクTV!-現スカパー!の広告代理店)、安室奈美恵関連の制作をしていた名古屋のイベント制作会社H2O、関西の大物プロモーター、のちにDSE社長となる榊原信行らが立ち上げたという[5][6]。イベントの制作はH2Oが行なっていた[7]。, KRSのスーパーバイザーは、三井物産の契約プロデューサーとしてパーフェクTV!立ち上げに参加し、サムライTV(現・スカパー・ブロードキャスティング)のプロデューサーで小室哲哉のアドバイザーでもあった喜多村豊が務め、空手家の黒澤浩樹が代表幹事としてKRSの顔の役割を担った。喜多村はメディアファクトリーのプロデューサーでもあり、同社からPRIDEの公式ガイドブックと公式ビデオが発売されていた[8]。, 1999年1月20日に株式会社ドリームステージエンターテインメント(DSE)が発足し、実行委員会組織での運営に限界があったKRSに代わり、「PRIDE.5」から運営を担当することになった。社長にはKRSで調整役として活躍した森下直人が就任。株の過半数を持つオーナー社長だったという。2000年8月27日の「PRIDE.10」で、アントニオ猪木がエグゼクティブ・プロデューサーに、2003年1月8日に森下直人が死去した後任の社長に榊原信行常務取締役が、2003年4月には、高田延彦がPRIDE統括本部長に、それぞれ就任。公的な役職には就いていはいないものの、作家の百瀬博教もプロデューサー的な立場だったと言われる(百瀬の公式ウェブサイトでは、興行を「百瀬博教プロデュース」と明記していた)。なお、榊原体制発足時にテレビ制作会社イースト(現・イースト・エンタテインメント)とスカイパーフェクト・コミュニケーションズ(現・スカパーJSAT)の資本がDSEに入った[9]。, K-1やUFCなどの他興行との協調路線を打ち出しており選手層の拡大が期待されたが、PRIDEがK-1からミルコ・クロコップを引き抜いたのをきっかけにK-1とは険悪な関係になり、日本の格闘技ブームの一つの頂点とも言える2003年12月31日の興行戦争[10]以来、K-1との対立は決定的になり、猪木、百瀬は離反した。, 2001年11月3日、「PRIDE.17」でヘビー級(93kg以上)とミドル級(93kg以下)の王座の新設に伴い王座決定戦が行われ、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとヴァンダレイ・シウバがそれぞれ初代王者となった。, 2003年ミドル級グランプリが2004年にはヘビー級グランプリが行われる。また2005年には再びミドル級グランプリが行われたほか、武士道においてウェルター級およびライト級のグランプリも開催された。, 2004年12月31日、「PRIDE男祭り 2004 -SADAME-」において国際レスリング連盟(FILA)会長のラファエル・マルティニティと、日本レスリング協会会長の福田富昭がリング上より「FILAはアマチュアレスラーのプロ格闘技活動を公式に認め、今後協会よりオリンピックメダリストをはじめ、世界中の強豪レスラーをPRIDEに送りこむ」という内容の挨拶を行う。, 2005年4月23日から『PRIDE GRANDPRIX 2005』を開催。12月31日には「PRIDE 男祭り 2005」を開催し49801人の集客に成功した。, 2006年3月、ウェルター級及びライト級王座を設立し、ダン・ヘンダーソン、五味隆典を初代王者に認定する。4月、無差別級グランプリが開催される。その最中の2006年6月5日、フジテレビはDSEとの契約を全面解除したことで、地上波中継が出来なくなる。直後に開催された「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND」では、会場の照明やセット、煽りVTR、実況等において劣化がみられ、フジテレビの撤退が少なからず影響したといえる。「PRIDE 武士道 -其の十三-」では、煽りVTR制作にフジテレビを退社した佐藤大輔、ナレーターに立木文彦という体制が復活。しかし地上波撤退の影響で、DSEへの信用失墜によるスポンサーの撤退が相次ぎ、一気に資金繰りが悪化していった。10月にはアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにて初めての海外大会「PRIDE.32」を開催。翌年2月には「PRIDE.33」を再び同地で催して活路を求めたが、経営体力は限界に達していた。, 2007年3月27日、東京・六本木ヒルズアリーナで記者会見が行われ、DSEはアメリカの総合格闘技イベントUFCおよび同イベントを主催するズッファ社のオーナーであるロレンゾ・フェティータに興行権を譲渡するとともに、本社を米・デラウェア州に置く新会社「PRIDE FC WORLDWIDE (Pride FC Worldwide Holdings, LLC)」の設立が発表された[11]。4月8日の「PRIDE.34」がDSE体制として最後の興行となった。だが、2007年5月に開催予定だったライト級グランプリは準備不足のため夏に延期になるなど、新体制発足後は興行開催の目途が全く立たない先行き不透明の状態が続いた。そのため提携先のUFCやDEEP、さらに最大のライバル団体であったHERO'Sへと選手が流出した。また、2007年4月17日にDSEが開いた臨時株主総会で法人解散を決議したことが官報に公示された。, 2007年10月4日、PRIDE FC WORLDWIDE日本事務所の解散と運営スタッフの解雇がなされたことが報じられ、PRIDEは事実上消滅した[12]。これについてPRIDE FC WORLDWIDE側は、事務所の解散およびスタッフの解雇は日本でのイベント開催が不可能になったことに起因するもので、それらは旧DSEの元役員の協力不足によるものであるとする声明を発表した。, その後もPRIDEの各権利はPRIDE FC WORLDWIDEが保持しているが、2008年2月にアメリカでPRIDE FC WORLDWIDEと関連会社が榊原信行らを相手取り協力不足や情報開示がされなかったこと等を理由に、これまでに支払われた金銭の返還とPRIDEを維持する義務の免除を求める訴訟を起こした。これに対して、榊原側はPRIDEの興行継続を断念したことは契約違反だとして、フェティータ兄弟とPRIDE FC WORLDWIDEを同年4月に訴えている[13][14][15]。, PRIDEの消滅に伴い、ここを主戦場としていた選手らの多くは各所に流出していった。2008年度前半期には、UFCへと流出した元PRIDE選手らが、UFCのヘビー級からミドル級までの3階級を全て制覇し、UFC王者の過半数を元PRIDE選手が占めるという事態が起こった。(2007~8年頃、ヘビー級暫定王者:アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ライトヘビー級王者:クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン、ミドル級王者:アンデウソン・シウバ), 2007年9月8日、UFC 75で、PRIDEミドル級王座を保持したままUFCに移籍したダン・ヘンダーソンと、クイントン・"ランペイジ"・ジャクソンの持つUFC世界ライトヘビー級王座との統一が行われ、ミドル級王座が消滅した。, 2007年11月21日の会見で同年の大晦日にロシアの総合格闘技プロモーション「M-1 Global」のサポートを受け、旧PRIDEスタッフの手により一夜限りでイベント「やれんのか!