今日は、東京タワーを観ながら、ボーっとしていました。 東京タワーは、どういうわけか、どこから見ても綺麗に見えるので、東京タワーに向かって歩いていない人でも、振り返って写真を撮っていました。 東京タワー(とうきょうタワー、英: Tokyo Tower)は、日本の東京都港区芝公園にある総合電波塔の愛称である。正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)。創設者は前田久吉。1958年12月23日竣工。東京のシンボル、観光名所とされる。, 高さは333メートル[1]と広報されており、海抜では351メートル。塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88.0メートル。総工費約30億円、1年半(197万4,015時間/543日間)と延べ21万9,335人の人員を要して完成した。地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)に展望台を有したトラス構造の電波塔である[3]。, 昼間障害標識として、頂点より黄赤色(インターナショナルオレンジ)と白色を交互に配した塗装となっている。テレビおよびFMラジオのアンテナとして放送電波を送出(#送信周波数・出力を参照)、また東日本旅客鉄道(JR東日本)の防護無線用アンテナとして緊急信号を発信するほか、東京都環境局の各種測定器なども設置されている。, 完成当初、当時日本一高い建造物だったお化け煙突を抜いて高さが日本一となった。なお、高さ日本一だったのは、1968年6月26日に小笠原諸島が日本に返還され南鳥島ロランタワーと硫黄島ロランタワーに抜かれるまでの約9年半と、対馬(長崎県)のオメガタワーが解体されてから東京スカイツリーに抜かれるまでの約11年間である。なお、自立式鉄塔に限れば、東京スカイツリーに抜かれるまでの約51年半は日本一の高さだった。2020年現在は、東京スカイツリーに次ぐ日本で2番目に高い建造物である。なお、重量については約4,000トンとされる。, 東京タワーの建主は株式会社TOKYO TOWER(英: TOKYO TOWER Co.,Ltd)であり、管理ならびに運営も同社で行っている。, 1957年5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ、当時、産業経済新聞社、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務め、後に関西テレビ放送[注釈 2]の社長にも就く前田久吉が日本電波塔株式会社(にっぽんでんぱとう、英: NIPPON TELEVISION CITY CORPORATION)を設立。久吉はタワーの完成とほぼ同時の1958年、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長の水野成夫に譲渡してその経営から手を引いたが、日本電波塔(東京タワー)とラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。その名残で産経新聞グループから離脱する直前の1957年10月、文化放送やニッポン放送などと共に発足した、中央ラジオ・テレビ健康保険組合に[注釈 3]基幹会社の一社として2019年現在でも加入している[4][5]。また、ラジオ大阪も2005年にフジサンケイグループ入りするまで、前田家主導で独自の経営をしていた。, 久吉はタワーの建設候補地として千葉県富津市鹿野山に山林を取得しており、これを有効活用するため1962年にマザー牧場を開設し、傘下に収めている。この関係で、2009年にマザー牧場や日本電波塔の関連会社が同県木更津市のコミュニティFMであるかずさエフエムの株式を取得し運営しているほか[6][7]、同市や君津市を中心とする地域で整備され2010年1月に経営破綻したかずさアカデミアパークの再建スポンサーを同年8月から日本電波塔・マザー牧場・ホテルオークラ・グリーンコアの各社が務め、経営再建を行っている[8]。, 1964年には敷地内に東京タワー放送センター(現・東京タワーメディアセンター)を建設し、同年開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継したテレビ東京が1985年まで本社として使用していた。テレビ東京天王洲スタジオ完成後の2000年より日本電波塔による自主運営となり、2005年7月には子会社「東京タワー芝公園スタジオ」(のちに東京タワースタジオ)に移管され、2012年に閉鎖されるまでテレビスタジオとして利用された。なお、東京タワースタジオ閉鎖後、内部改装を施し「東京タワーメディアセンター」に名称を変更、2019年1月時点でも営業を続けている。, また1960年代に東京タワーへのアクセスとして、日本電波塔自ら浜松町 - 東京タワー間1.2キロにモノレールの敷設を計画したが、これは実現しなかった[9]。, 東京タワーは、エフエム東京(TOKYO FM)の大株主(学校法人東海大学に次ぐ第2位)でもある。Kiss-FM KOBEの経営破綻による新会社・兵庫エフエム放送(Kiss FM KOBE)にTOKYO FMとともに19.2パーセントを出資。また2010年10月1日現在、エフエム大阪(FM OH!)の株式20パーセントに出資している。, 2018年12月23日、東京タワーの開業60周年を機に、運営会社の商号を株式会社東京タワーに変更[10]。翌2019年10月1日には株式会社TOKYO TOWERに変更した[11]。, 東京タワーの建設前、放送事業者各社局は個々に、高さ153 - 177メートルの電波塔を建設、自局の塔から放送を行っていた。これらの高さだと、放送電波は半径70キロ程度しか届かず、100キロ[注釈 8]離れた銚子や水戸では満足に電波を受信することができなかった。また受信アンテナには指向性があるため、チャンネルを変えるごとにアンテナの向きを各電波塔の方向に変えなければいけないという不便が生じた。, さらに、鉄塔の乱立は都市景観においても好ましい状況ではなく[48]、当時郵政省の電波管理局長であった浜田成徳をはじめとする関係者の中で、電波塔を一本化する総合電波塔を求める機運が高まっているところ、放送事業の将来性に着目した前田久吉と鹿内信隆[注釈 9]の各々によって計画され、まもなく両者の計画は一元化された。, ほかの計画案もあったが、高さ300メートルを超える案は東京タワーのみで、次に高いものは200メートル級であり、放送事業者の既存の限られた土地を利用するため、展望台のないスリムなものであった。浜田は、パリのエッフェル塔を超える世界最大の塔を造り、そこに展望台を設けて集客すれば、建設費は10年で元が取れると考えていた。, 建設地は安定した電波を供給するために巨大な電波塔の建設が可能な広さと強固な地盤を有していること、魅力ある展望台のために工場などの煙が景観を妨げないことなど厳しい条件が求められた。, 当初は上野公園付近への建設も検討されたが、海抜18メートルの高台にある港区芝公園地区は基礎を打ち込むための東京礫層地盤もより浅いところにあり、国の中枢機関や各放送事業者との距離が近いなど、報道と観光の両面に恵まれた立地であった。, 増上寺の境内は25区画に分割された公園に指定されており日本電波塔株式会社は「紅葉山」と呼ばれる、以前紅葉館という高級料亭のあった区画を購入した。土地の買収は増上寺の檀家総代に前田が日本工業新聞の社長時代から親交があった池貝庄太郎がおり、増上寺との間を取り持って用地買収を成功させるよう働きかけた。また芝公園4丁目地区の周辺一帯は建物倒壊危険度、火災危険度、避難危険度を示す地域の危険度特性評価(東京都2002年実施)において「相対的に危険度の低い町」を示すAAAの評価を得ており、防災面でも電波塔の立地に適していることがのちに判明した。, タワーより西側の住民は、飛行機の衝突、交通渋滞、ゴミの増加、環境が悪くなり子どもに悪影響があるのではないかとタワー建築に反対の姿勢であった。東側は、当時の国鉄浜松町駅からタワーへ向かう客により潤されることを期待した。, この塔の建設に先立ち「日本電波塔株式会社」が設立された。そして、建築設計の構造力学を専門とする学者で、戦艦大和の鉄塔や名古屋テレビ塔や大阪の通天閣の設計も行い、さらに数十本におよぶラジオの電波塔を設計した実績があり、日本の塔設計の第一人者である内藤多仲、および日建設計株式会社が共同で塔の設計を行った。内藤は当時話題を提供していたドイツのシュトゥットガルトテレビ塔(英語版)(216.6メートル)を参考に鉄筋コンクリートの塔を想定した検討を行う[注釈 10]が、特に基礎に関して敷地の関係などかなりの困難が伴うとの判断から鉄塔で計算を進める方針となった[50]。, 前田久吉は「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。1300年も前にすでに高さ57メートルあまりもある立派な塔(五重塔)が日本人の手でできたのである。ましてや科学技術が進展した今なら必ずできる」と高さの意義を強く主張した。設計の条件として、アンテナを含めた塔の高さが380メートルで、高所に展望台を設置し、塔の下に5階建ての科学館をつくることを挙げた。東京全域に電波を送るには380メートルの高さが必要と推定されていたが、380メートルと想定して計算すると風の影響でアンテナが数メートルも大きく揺れると計算され画像が乱れる可能性が高かったため、先端のアンテナの揺れを数十センチ程度に抑え、放送に悪影響が起きず、かつ関東地方全部を守備範囲にできるぎりぎりの寸法についてさまざまに計算したところ、「全高333メートル」という数字が導き出され、偶然「3」が続く語呂合わせのような高さになった。この高さはフランス・パリのエッフェル塔の312メートル(2000年現在は324メートル[51])より21メートル高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高という条件を満たしていた。, 当初は最上部で風速90メートル、下部で風速60メートルの強風と大地震(同タワーの耐震設計で考慮された水平震度は0.99Gで、関東大震災時に小田原付近で推定された加速度の約2倍に相当)に遭遇しても安全なように、軽量化に有利な電気溶接ではなく、重量がかさむが当時では確実な技術としてリベットによる接合での構造設計がなされた。風力係数は当時の建設省建築研究所の亀井勇教授に依頼し、風洞実験を行った。地震力はまだ静的解析の時代であり、鉄塔では風圧力の方が支配的であったこともあり建築基準法の地震力算定法通りk=0.16+h/400を水平震度として適用した。解析、計算はすべて手計算で、トラスの解法として一般的であったクレモナ図解法とカスティリアーノの定理が使用された。, 構造計算書の最終チェックは自身の設計事務所の田中彌壽雄、日建設計の鏡才吉とともに熱海にある早稲田大学の保養所「双柿舎」に3日間缶詰状態で行われた。設計を終えた内藤は「どうかね、こんなに素晴らしい眺めはない」と言った[52]。のちに立体骨組モデル応力解析ソフトウェア“FRAN”で耐力を検証しているが、かなりの精度で一致していた[53]。また加藤勉(東京大学名誉教授・(財)溶接研究所理事長)による「東京タワーの構造安全性について」(2007年)によって、東京タワーの構造の信頼性は高いという第三者評価を受けている[54]。当時の建築基準法では建築物の高さは最大100尺(約31メートル)以下と決められていたが、タワーは工作物とみなされ建築が可能となった。当初、地上約66メートル付近にビアレストランを設置する計画だったが、実現されることはなかった。これは、レストランにすると建築基準法に抵触したためと考えられている。, 1957年5月から6月末までの約45日間でボーリング調査を行った時点で、設計は未完成であったが、短期間に完成させなければならないため、6月29日に増上寺の墓地を一部取り壊してすでに設計の決まっていた基礎部の工事が開始された。7月15日に最終的な設計図が完成し、9月21日には鉄骨の組み立てが始まった。, 施工はゼネコンの竹中工務店。塔体加工は新三菱重工(現・三菱重工業)、松尾橋梁。鉄塔建築は宮地建設工業(現・宮地エンジニアリング)が請け負った。現場指揮官は直前にNHK松山放送局電波塔を担当していた同社の竹山正明(当時31歳)[55]。現場でのヘルメットの色は白:監督管理関係、黄:竹中工務店の社員、緑:鉄塔建方関係、灰:設備関係で色分けされた。, 基礎は海抜0メートルの砂利層まで掘り下げて、コンクリートを打ち込み直径が2メートル、長さ15メートルで底の直径が3.5メートルのコンクリート製の円柱を1脚に8本打った(のちのデジタルアンテナ増設時に2本ずつ増設)。塔脚にはカールソン型応力計を埋めておき、脚を支えるための支柱をオイルジャッキで持ち上げて脚の傾きを調節する際など、各塔脚に加わる重量の計測に利用している。タワーは脚を広げた形をしているため、重みで脚が外へ広がろうとする力が加わるが、直径5センチの鋼棒20本を各脚に地中で対角線上に結んで防いでいる[56]。, 高さ40メートルのアーチライン最上部までは長さ63メートルのガイデリックを使用し、次に80メートルまで組み立てるため、ガイデリックを地上53メートルのマンモス梁までせり上げ鉄骨を組み立てていった。80メートルからの組み立てはエレクターを用いて、鉄骨はエレベーターシャフト内を持ち上げていった[57]。, 塔脚4本が地上40メートルでアーチ形に組まれたのは1957年12月だが、アーチ中央部が加工の段階で設計より15ミリ沈んでおり、梁の結合ができずに1週間原因究明に時間を費やした。しかしこの問題は、鉄骨に開けられていたリベットを差し込む穴を15ミリずらすことで解決した。, 高所までの移動は、80メートルの足場まで4分で昇る2メートル四方のゴンドラ3台で対処した。, 高さ141.1メートル(H.14)地点まではリベットで組み立て、それ以上は防さびのため部材に亜鉛メッキを行ったことで、ボルト接合になっている。ボルトは締めたあとに溶接して固めるが夏場の鉄塔は40 - 50度まで上昇し、とび職達を苦しめた。リベットは16万8,000本、本締めボルトは亜鉛メッキ部材の現地接合に4万5,000本使用している[58]。, アンテナの設置は当初、名古屋テレビ塔や東京スカイツリーのように塔体内を吊り上げる予定であったが、アンテナ工事は台風の多い9月に開始されたため、工事が遅れてしまいアンテナを上げる前にエレベータ設置工事を始めないと、工期に間に合わなくなってしまった。そのために、アンテナは塔本体の上に30メートルの仮設鉄塔を組んで仮設鉄塔の一面を開けておき、8つに分かれたアンテナ部材(最大14トン)を、下の部材から順に塔の外側から吊り上げていった。塔体内では吊り上げた部材に順次ボルト接合を施して組み立てていき、1958年10月14日15時47分、アンテナが塔頂部に据え付けられた。, 現場鳶職人は初期に20人。仕事が増えるにつれ常時60人、タワー上部では6 - 7人で組み立てを行っていた。若頭は当時25歳の桐生五郎[注釈 11]。桐生はタワー完成翌日に、建設中に見合いをした女性と結婚式を挙げた[55]。建設には渡り職人も参加している。当時の鳶の平均日給は500円、タワーでは750円だった。高さを増すごとに強風に苦しめられたが、納期があるために風速15m/sまでは作業を実施した。しかし建設中の1958年6月30日10時[55]に、昇っていた鳶職1人が強風に煽られて高さ61メートルから転落死し、麓にある増上寺で葬儀を行っている。, 着工から1年3か月後(543日間)の1958年12月23日、延人員21万9,335人にて完成し、鉄塔本体の最上部に建設に携わった96人の技術屋たちの名前が刻まれた金属製の銘板[注釈 12]が据えられた[59]。総工費は当時の金額で30億円であった。, 合計約4,000トン[58]の鋼材(鉄塔本体:SS41(旧JIS。現JISではSS400。降伏強度は240N(ニュートン)/mm2[60])、アンテナ支持台:SHT52相当品[58] 降伏強度 325N/mm2[61])が使用されたが、その中でも特別展望台から上の部分に使用されている鉄材の原料には朝鮮戦争後にスクラップされたアメリカ軍の戦車約90台が使われている[62]。これは当時の日本では良質の鋼材に恵まれず、またアメリカにとっても修理するより旧式戦車を売却して新型戦車を製造した方がメリットが大きかったためである[62][63][64]。これがバラエティ番組『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で取り上げられた際に「東京タワーの特別展望台の上はさらに特別なものだった」と形容されている[62]。, タワーの高さは標高18.000メートルを地盤面(G.L・Ground Line)としているため、東京湾中等潮位(T.P・TOKYO Peil)からの値を使用している[3]。, タワーは丘陵地に建っており、正面は1階が出入り口で駐車場出入り口は2階に位置している。そのためどの部分を基準としているのかがわかりにくく、タワーを訪れても基準となる目印は特に見当たらない。, 「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた名称審査会で決定した。事前に名称を公募し、最終的には8万6,269通の応募が寄せられた。, 一番多かった名称は「昭和塔」(1,832通)で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。ほかには当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(明仁上皇)の成婚(1959年)が近いということで「プリンス塔」という応募名称もあった。, しかし名称審査会に参加した徳川夢声が、「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果1958年10月9日に「東京タワー」に決定した。, 「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26パーセント、13位[66])であり、抽選で神奈川県の小学校5年生女子児童に賞金10万円が贈られた。, 東京タワーの完成に先行して開局していたNHK総合テレビジョン・日本テレビ放送網(NTV、以下「日本テレビ」)・ラジオ東京(1960年に東京放送(TBS)に改称。以下「TBSテレビ」)は、それぞれ自局の敷地に電波鉄塔を建設してテレビ放送を行っていた。, そのため、当初は1959年に新たに開局したNHK教育テレビジョン(1月開局。当時1ch)・日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日。2月開局)・フジテレビジョン(CX、3月開局。以下「フジテレビ」)が利用していた[注釈 13](NHKは同年4月に総合テレビと教育テレビのチャンネルを交換)。翌1960年に赤坂のTBSテレビ(1月)と紀尾井町からの送信に変わっていたNHK教育テレビ(5月)も合流した。, 当初はNHKと民放6局のアンテナを東京タワーに一本化するはずだったが、調整の段階で日本テレビが「採算が合わない」「アンテナの配分が不満だ」という理由で不参加になった。しかし、実際はテレビ業界の覇権を競う産経新聞創設者の前田久吉と、読売新聞中興の祖であり、日本テレビ創設者でもある正力松太郎との対立といわれる。東京タワーの完成後も日本テレビは麹町の自社敷地内のアンテナから電波を発信し続けていたが、他局に比べて放送エリアが劣るのは否めなかった。そこで同局は自社の所有地である新宿(現在の東京メトロ副都心線・都営地下鉄大江戸線東新宿駅付近。新宿六丁目の新宿イーストサイドスクエア敷地)に東京タワーの2倍もの高さを持つ電波塔「正力タワー」の建設を計画して1968年5月10日に発表。ボーリング調査や東京都に建築申請書を提出している。さらにNHKも「NHKが民放に恒久施設を借りた例がない。そんなことをしては聴視者に責任がもてない」と1969年7月2日、渋谷のNHK放送センター敷地内に高さ600メートルの電波塔を建てる計画を発表する。これを受けて放送事業の監督官庁であった当時の郵政省は、利害関係者である日本電波塔(東京タワーの会社)を交えて話し合うことを指示するが、日本テレビは「あくまでも実行する」と発表[67]。しかし正力没後の翌1970年に、メインアンテナを麹町の本社から東京タワーへ移転することになった[注釈 14]。その際、TBSが自社の予備スペースを日本テレビに譲ることでメインアンテナのスペースを確保している[注釈 15]。これにより全放送局が東京タワーに集約された。, 建設時の塗装は地上からH.14(地上141.1m)までは鋼材を工場にてサンドブラストしてから下塗りまで塗装し、現地搬入時に2回目の下塗りをした。接合部のリベット頭・部材エッジ部は予め下塗り塗装による増し塗りが行われ中塗り、上塗りにはフタル酸樹脂系塗料を用いて6行程行われた。H.14からH.27(地上252.65m)までは工場にて鋼材を酸洗いしてから溶融亜鉛メッキを施し現地搬入、建方、本締めボルト接合後にジンククロメート系さび止めペイントを塗装した。中塗り、上塗りは鉄鋼材と同様である[58]。また建築当時はインターナショナルオレンジがさび止めの鉛丹と間違えられ、完成した後も最終的にはどのような色になるのかまだペインティングの途中だと思っている人がいた。, 東京湾からの潮風による腐食の防止とインターナショナルオレンジの白化現象が目立ち美観を保つ上でほぼ5年に1度の周期で約1年かけて外観塗装を補修しており、1回目(1965年)は磯部塗装が担当し2回目(1970年)以降は平岩塗装が一貫して請け負っている。平岩塗装の平岩高夫会長は前田久吉から会うたびに「鉄はサビさせてはあかんからな。大事に守ってくれ」と言われている[68]。, 鉄塔本体の塗装工区は大展望台を境に2つに分け上部は秋に、下部は翌年の春に施工している。作業時間は日の出から営業を開始する9時までに限定されていたが現在は7時を過ぎると通勤者が増えるため、2時から7時までの5時間で作業を行う。, 最上部のアンテナを除くH.27の塔体の上から順に木製の丸太で足場を組み、まずケレン落としと呼ばれる下作業をして下塗り、中塗り、上塗りと3工程が行われるがこれは全てハケを使い人の手によって塗られる。上部のアンテナは電波を送信するため足場を組むわけにはいかず、放送電波が停止した時間に職人がアンテナをよじ上って作業をした。総塗装面積94,000m2に使うペンキの量は34,000リットルとなり、延べ約4200人が作業に当たる。使用する塗料は一斗缶に置き換えて縦に積み重ねると、東京タワーの2倍の高さになる[69]。金属ではなく木製の丸太を使用するのは近隣への防音対策と電波への影響を避けるためであり、丸太の総数は1万本以上となる。以前にグラスファイバーのパイプを使用しようとしたことがあったがジョイント部分のクランプの使い勝手が悪く、木製の丸太に落ち着いている。また塗装期間中のライトアップは右写真のようにタワーに影ができる。, 塗装工事の最終日には、タワーのマークと職人一人ひとりの名前が刻まれた五百円玉大の記念メダルが職人に手渡された。, 全面塗替は第1回が1965年、第2回が1970年、第3回が1976年、第4回が1980年、第5回が1986年、第6回が1991年、第7回が1996年、第8回が2001年、第9回が2007年に行われているがその都度塗り足しをしているため、9回の作業で完成時より約1mm塗装が厚くなっている[70]。そのあと、2013年ごろに第10回目の塗り替えが行われ、2018年3月から2019年夏ごろまでの予定で、第11回目の塗り替えが行われている。塗料の性能向上により、今後は塗り替えが7年周期に延長される予定である[71]。, 航空法によりストロボのような白色航空障害灯を常時点滅させれば現在のペイントを変更することは可能だが周囲には住宅や高速道路があり、住民への迷惑、運転者への安全を考えるとペインティングの変更は考えにくい。2008年現在は7等分の塗り分けだが、建設当時から1986年までは11等分に塗り分けていた。また大展望台の外壁は現在は白色だが、1996年まではインターナショナルオレンジだった。, この塔の売り上げは観光による収入が5割を超えている。東京近辺を目的地とする修学旅行などにおける定番の行き先として定着している。開業翌年の1959年に当時上野動物園が持つ年間入場者記録360万人を大幅に抜き、来塔者513万人(1 - 12月)を記録[54]。一時落ち込みはあったが、現在は年間300万人が来塔している。, タワーは地方や海外からの観光客が多く利用し、地元の東京都民は「東京タワーは『おのぼりさん』が行くところ」と登ったことがないという人もいる。そのため日本電波塔株式会社では社員の意識改革を行い若手デザイナーを起用し、イルミネーションなどを企画して来塔者数を増やした[72]。, コンセプトは「ゆったり楽しむ壮大な東京の景色」である。2018年6月の時点で段階的にリフォーム中。, 特別展望台(現:トップデッキ)のトイレは洋式で男性用、女性用が用意されている。公衆電話はあるが売店、自動販売機はない。ゴミ入れはあるが穴が缶くらいの大きさのため、基本的にゴミは持ち帰りである。かつては大展望台2階からは「風と光のプロローグ」というテーマで装飾された階段とエスカレーターを使ってトップデッキ行きエレベーターホールまで行ったが、現在は違う。このため車いすは利用できない。AEDは設置されている。2018年3月の大規模修繕時に「特別展望台」は「トップデッキ」に改称された。, リフォーム後はジオメトリックミラーやLED照明で美しく仕上がっている。またチケットは事前にインターネットで予約するか、1階のチケット売り場で予約する形態になっている。観光する際はツアーをするような形態で、「トップデッキツアー」と呼んでいる。, この際料金も値上がりしたが東京タワーの社長は「料金が値上がりしたが(中略)楽しんでいただきたい」としている。[74], タワーの下にある5階建ての観光・娯楽施設で、以前は「タワービル」と呼び科学館でもあった。タワーのおもりとして設計されている。過去にはTEPCOタワーランドやフジテレビタワープラザといった東京電力やフジテレビのショールームも入居していた。, イルミネーションは1958年12月21日に実験的に灯され、開業から20日間毎晩点灯された。その後は日曜、祝日の前夜に点灯し1964年の東京オリンピック中は連夜点灯。これが好評であったために1965年のクリスマスイブから連夜の点灯となった。電球は鉄塔の四隅に5m間隔で250灯配置していたが随時増えてゆき、1976年には696灯(塔体384灯、アンテナ88灯、特別展望台96灯、大展望台128灯)となった。電球が切れた場合はその都度交換しに行くのは手間がかかるため、ある程度切れたら交換していたが所々光が途切れている部分は目立ち、ある芸能人から「地方から東京に帰ってきてタワーを見ると、電球が切れていて気になる」と指摘を受けている[77]。, 電気料金は2008年12月時点では投光器の精度がアップしたことと中間部照明器具に消費電力の少ないLEDを使用していることにより、約1万8520円と約25%の省電力となっている[80]。, 過去に「乳がん撲滅キャンペーン(ピンクリボンデー)」で桃色、映画『マトリックス・リローデッド』のプロモーションやアイルランドと日本の外交関係50周年の記念として緑色、地上デジタル放送のプロモーションや世界糖尿病デーで青色のライトアップになったこともある。, 2000年から年末年始(クリスマス終了から1月中旬まで)に大展望台の窓ガラスの外側に西暦の数字を装飾している。時間は16時30分 - 翌朝8時まで。ただし、大晦日は西暦表示の切り替え作業のため、0時から8時までの点灯となる。, 2005年12月の地上デジタル放送のプロモーションで「地デジ」の文字や、2016年の東京オリンピック招致でオリンピックの色を使った「Tokyo」「2016」の文字を装飾していた時期があった。クリスマスには大展望台にピンクのハートが点灯される。, 2007年の第58回NHK紅白歌合戦では総合優勝を決めるにあたり従来のそれぞれの審査カテゴリー別の得票最多チームをボールで数える「玉入れ方式」を行わず、東京タワーのライトアップに拠って最終成績を決めるという試みを行った。, 2008年クリスマスの期間中(2010年は12月1日 - 26日)、毎日19時半に一旦ランドマークライトアップが消灯し大展望台にピンクのハートマークや大展望台から地上へ繋がるフラッシュライトがクリスマスソングに合わせて光のショー「東京タワークリスマス・ライトダウンストーリー」を展開する。, スポーツ大会で日本を応援する時や、優勝した場合には特別ライトアップが行われる時があり、夏・冬のオリンピック・パラリンピックで日本人選手・チームが金メダルを獲得した時[81]、2009年のワールド・ベースボール・クラシックで侍JAPANが連覇を決めた時、サッカー日本代表がFIFAワールドカップ南アフリカ大会出場を決定した時、更には2011年にFIFA女子ワールドカップドイツ大会でサッカー日本女子代表が優勝した時には祝賀のライトアップを行った。, 2011年には石井の提案により東日本大震災によって落ち込んだ日本を応援するべく、大展望台に8400個のLEDで「GANBARO NIPPON」の文字装飾を4月11日から16日まで行った[82]。電力は太陽光発電でまかなわれ、その後ハートマークの装飾も実施した。また、6月20日には世界難民デーにあわせ 国際連合カラーにライトアップされた。, 2013年7月18日から7月21日までの4日間は、同月19日から10月6日まで開催の「藤子・F・不二雄展」に合わせ、青・赤・黄を基調としたドラえもんカラー(青で体色、赤で首輪、黄で鈴を示す)にライトアップされた[83]。また、9月3日のドラえもんの誕生日に合わせ、同年9月2日から9月4日までの3日間にも再び同色にライトアップされた[84]。, 2015年11月15日は2日前に発生したパリ同時多発テロ事件への哀悼の意味を込めて、東京スカイツリーとともにフランスの国旗と同じ青・白・赤にライトアップされた[85]。, 2017年9月23日は当日に番組終了を迎えたテレビ朝日系『SmaSTATION!