タモリが左翼みたいなことをしていた理由に . 《赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです》, 平成20(2008)年8月7日、その5日前に亡くなったマンガ家・赤塚不二夫(享年72)の告別式で、タモリ(当時62歳)は恩人への弔辞をこのように結んだ。このとき、彼は紙を手に弔辞を読み上げたが、じつはそこには何も書かれていなかったことがあとでわかり、アドリブで語っていたのかと話題を呼ぶ。「私もあなたの作品の一つです」はこの年の新語・流行語大賞にもノミネートされている。, タモリは早稲田大学を中退後、郷里の福岡に戻ってサラリーマン生活を送っていた。だが、昭和50(1975)年、お笑いの道に進む決心をして再び上京する。その数年前には、福岡に公演で訪れたジャズミュージシャンの山下洋輔や中村誠一らと知り合い、一緒に遊ぶ仲になっていた。彼らが根城にしていた新宿のバー「ジャックの豆の木」の常連客たちにも、デタラメな外国語などを持ち芸とするタモリの噂が広がっていく。上京も、その芸を見たがった店の客らがカネを出し合い、東京までの新幹線の切符をタモリに送ったのが直接のきっかけだった。, 「ジャックの豆の木」に現れるや、客たちのリクエストに応じて、アドリブで次々と芸を繰り出すタモリはたちまち人気者となる。多くの著名人も噂を聞きつけ、夜の新宿へ足を運んだ。赤塚不二夫もその一人だった。一目見て、すっかりタモリのことを気に入った赤塚は、こんな才能の持ち主を福岡に帰してはいけないと、目白にあったマンションの自室に彼を住まわせる。タモリが後年、「俺の人生のなかで一番楽しかった」と語った居候時代はこうして始まった。, その堂々たる居候ぶりは、いまでも語り草だ。部屋にあった赤塚の服を勝手に着て、本人からそれを指摘されても知らんぷり。一緒に遊びに行っても、帰りは赤塚はタクシーで、タモリは彼の所有するベンツに乗ってと別々だった。赤塚はそんなタモリに月に3万円ほど小遣いをやり、酒がないと聞けば、翌日にはハイネケンのビールを何ダースも届けた。たまに部屋へ自分の服などを取りに行っても、むしろ家主である彼のほうが遠慮して、「持って行っていいか?」といちいちタモリにうかがいを立てる始末。タモリは、赤塚はてっきり別にマンションを持っていて、そこに住んでいるものと思い込んでいたが、実際には彼は仕事場に寝泊まりしていた。, ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号6091713号)です。, 「1度原発で働いたヤツは、原発に帰ってくる」 作業員を離さない、福島1Fの“うま味”とは, 進化した「半グレ」その犯罪の残忍な手口とは?〈暗号化アプリを活用、高齢者からセクシー女優まで標的〉, 【暴力団幹部が語る】令和の不良の行き着く先「半グレ」を現役ヤクザはどう見ているのか?, 《第2子妊娠》自然体の歌姫・浜崎あゆみの恋多き“ハートタトゥー”な人生と知られざる“DV騒動”, 「金属バットはフルスイング」「耳を切断」凶悪化する“半グレ”はヤクザと何が違うのか?《警察幹部が分析》, 韓国で『鬼滅の刃』ファンが“売国奴”と罵られる理由〈炭治郎の“旭日旗”耳飾りは変更、12月公開へ〉, 「昏睡状態の女性をレイプすることが……」すでに7人を殺害した白石被告が犯行をやめなかった理由, “ロケ行きたくない”にスタッフ唖然……小林麻耶41歳、“テレビ界追放危機”の本当の理由, 三浦春馬さん最後の出演ドラマ『カネ恋』シナリオブックで明かされた“本当の結末”と“4話完結の秘密”, 半グレ「東京ブラザーズ」とは何者か? 警察が警戒強化する“ネパール人グループ”勢力拡大, いいお話では物足りない…『ポツンと一軒家』からいつの間にか「失われたもの」――青木るえか「テレビ健康診断」, まさかの「菅・文在寅宣言」案が飛び出した…バイデン当選で苦しい韓国、ついに日本に歩み寄るか, 中尾彬さん、池波志乃さんと考える「家族への想いをカタチに 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タモリさんの弔辞全文 8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。 ご訪問ありがとうございます。今日はビックスリーの一人でもある、名司会者タモリさんについての話題を掘り下げて行きたいと思います。タモリさんと言えば、これまで数々の伝説を作ってこられた人物でありますが、今回は白紙の弔辞というものについてまとめて行きます。, 日本のテレビ番組を語る上で、大変重要人物となっているタモリこと森田一義さん。今、タモリさんが作った数々の伝説の中の1つである、白紙の弔辞が話題になっています。事のきっかけは、誰もが知っている有名漫画、『天才バカボン』や『おそ松くん』の作者、赤塚不二夫さんなのです。, 赤塚不二夫さんが亡くなられた際、葬儀に出席したタモリさん。その際彼は、赤塚不二夫さんへの弔辞を読むこととなったのです。しかしその弔辞がなんと!白紙ではないか?という説が噂されています。弔辞といえば、かなり長い文章であるのが一般的ではないでしょうか。, そのような長文を、大変な濃度の内容で読み上げたタモリさん。葬儀に参列した当時も話題になりましたが、改めて10年経った今でも伝説となっているようです。それでは事の詳細を紐解いて行きたいと思います。, さて弔辞とは、亡くなった方と最も関係が深かった人間が、遺族の希望で務める事が多いのだそうです。葬儀の際、赤塚不二夫さんと生前最も親しかったとされるタモリさんが、その大役に選ばれたのです。下記の引用文抜粋の文章をご覧ください。, 私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。, 赤塚不二夫さんの葬儀にてタモリさんが読んだとされる、弔辞の冒頭部分を抜粋したものになります。お二人のドラマのように運命的な出会いが、目に浮かんでくる文章ですよね。その後の文章はこのように続きます。, あなたは「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。, それから長いつきあいが始まりました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。, ビッグスリー、タモリの誕生秘話と言ったところでしょうか。上記に記されている出来事が起こらなければ、今の大成功を納めたタモリさんは存在しないかも知れません。まだまだ驚きの弔辞は続きます。, あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。, 赤塚不二夫さんの、知られざる温かいお人柄がどんどん溢れ出てきますね。皆さんお馴染み、赤塚先生の名言に”これでいいのだ”というものがあります。懐の深い赤塚不二夫さんだからこそ言える、素晴らしいお言葉だったのですね。, あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を無化していったのです。, いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月。伊豆での正月。そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが、京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。, ここまででも相当な長さと、密度の濃い内容となっているのですが、伝説の弔辞はまだまだ続きます。タモリさんと、赤塚不二夫さん。お二人で幾度となくご旅行へ行かれたり、無数の喜怒哀楽を共にされたのですね。これほどまでに、仲が良かったとはあまり知られていない事実のようです。, あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。, 伝説の弔辞も終盤に差し掛かってきましたが、記事を書きながら涙が止まりません。これほど素敵な関係を、赤の他人同士が築けるものなのかと、ひたすらに感動させられますね。そして最後はこのように締めくくられています。, 私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。, ”親しき中にも礼儀あり”という諺がありますが、タモリさんと赤塚不二夫さんは、そんな諺さえとうに超越した、どこまでも深く素晴らしい関係であった事が改めてわかる文章のように思います。分割してお伝えしましたが、以上が赤塚不二夫さんへ送った、伝説の弔辞となっております。, このような壮絶な文章を、何も見ずにスラスラと述べられる。いくら話す事の慣れている、タモリさんだからと言って、いつでも成し遂げられる事ではないと思います。赤塚不二夫さんへの弔辞だったからこそ、お二人の関係性が偉大なものであったからこその伝説ではないかというのが、筆者の思うところです。, 赤塚不二夫さんといえば、未だに作品がリメイクされるなど、こちらも伝説の絶えない人物ですね。綾瀬はるかさん、岡田将生さんが出演した、実写版『ひみつのアッコちゃん』や爆発的なブームを巻き起こしたアニメ『おそ松さん』など。名作の数々は今も輝き続けています。, 今回の記事を通して、タモリさんと赤塚不二夫さんの知られざる関係を垣間見る事ができました。赤塚さんは天国から、今もタモリさんのことを温かく見守っている事を確信しています。赤塚不二夫さんのご冥福をお祈りいたします。, 長くなりましたが、今回の記事はこれで終わりとなります。いかがでしたでしょうか?少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!またお会いできますように. 平成の終焉を目前にした2019年4月10日、陛下即位30年祭典の中でビートたけし(北野武)が、永く語り継がれるであろう祝辞を披露した。, マイクに頭をぶつける“お約束”から開始。同席した首相にちなんだ小芝居をしたり、自身の退社騒動や自作映画出演者の不祥事に言及したりと、このまま終始ボケ倒すのかと思わせつつ、沿道で観た成婚パレードの回想からきれいな弧を描いて感謝の言葉へと移行。最後は「ずっと国民に寄り添っていただける天皇皇后両陛下のいらっしゃる日本という国に生を受けたことを幸せに思います」という一文で締めくくった。, この報せを読みながらぼくは、平成において、最も斬新な弔辞を放送にのせたのがタモリで、最も斬新な祝辞を放送にのせたのがビートたけしだという、収まりの良い結末に気がついた。タモリによる弔辞とはもちろん、2006年8月7日に赤塚不二夫の告別式で読み上げた(すでに10年以上語り継がれてきた)それだ。, 読み上げたといっても、手元の紙は白紙だった。赤塚不二夫の人柄が分かる様々な回想から、“これでいいのだ”の哲学的な考察、そして「私もあなたの数多く作品の一つです」という名言に連なる感謝の言葉まで、タモリは8分間相当の内容をあたかも文字を追うような様子でスラスラと述べた。歌舞伎の演目「勧進帳」のパロディであるのは後日メディアが解明したが、タモリのマネージャーの名前が(劇中の関守と同じ)“富樫”であるのも込みのパロディだったことは現在でもあまり知られていない(親交の深い横澤彪が当時ブログで本人談を吹聴していた)。, おそらく、たけしは今後その祝辞の内情を折にふれて語り、小噺として研鑽していくことだろう。反対に、タモリは今後もあの弔辞について公で語ることはないとみられる。遠くて近い、近くて遠い2人の天才芸人。その関係性を改めて思う今日この頃である。, 日本のお笑いBIG3といえば、タモリ・ビートたけし・明石家さんまのことだが。純然たるカリスマ芸人としてバラエティ界に君臨しつづけているさんまとは違い、タモリ・たけしの場合は、影響力が早い段階から芸人の単位を超えていたと思う。, 根城はあくまでバラエティ界であっても、各々のユーモアセンスを下支えする知的好奇心や反骨精神が、音楽家、映画監督、劇作家、小説家、漫画家、前衛芸術家…といった様々な他分野の表現者をも刺激し、一方では、半ば学術的に語る有名無名の論客を数多く呼び起こしてきた。さんまの輝かしい足跡を辿ることはそのままの意義であるが、タモリ・たけしの場合は、彼らそれぞれを中心として広がった一種の文化圏を把握することとなる。, それは他でいうなら、藤子不二雄になくて手塚治虫にあるもの、木下恵介になくて黒澤明にあるもの、王貞治になくて長嶋茂雄にあるもの。大きな数字を残す、永く大衆に支持される、というだけでない“何か”によって職種を超越した文化圏は出来上がり得る。娯楽の多様化が進む中、タモリ・たけし級の文化圏をもつ新たな芸人というのはもうメディアに登場しない気がする。, 平成における共演を振り返ってみると、専らBIG3としてのそれである。ただでさえ互いが距離感を躊躇う間柄であるところ、さんまが加わると、演芸場出身のたたき上げ2名(たけし・さんま)とテレビ出身のシード枠1名(タモリ)という関係性を強調するさんまのダメ出し芸に弄られる側のタモリも満足するため、タモリ・たけしが直接かけあうことはほとんどなかった。  では、2人だけの共演のときはどうだったか。, 最新の共演にあたるのはご周知の通り、2014年春「笑っていいとも!」最終回での「テレフォンショッキング」である。たけしは袴姿でアルタスタジオに現れ、前述の祝辞に通底する“表彰芸”をいきいきと披露したが、それがコーナー開始から5分ほどで終わると、CM入りのジングル「ウキウキウォッチング」がスタジオに鳴り響くまでは2人だけの“モジモジウォッチング”に。同時期、たけしは東スポ主催の恒例行事「ビートたけしのエンターテインメント賞」でタモリを特別賞に選出しており(スケジュールの都合でタモリは会場欠席)毒舌に終始した“表彰芸”がその裏返しなのは明らかだった。話題を探りあう背景には、花々よりも鮮やかな2人の歴史がみえた気がした。, その前が、2012年秋の「テレフォンショッキング」(映画「アウトレイジ ビヨンド」のPR期間だった)。様子は同じく“モジモジウォッチング”。番組開始前にたけしにも司会の打診がきていたという、後の最終回のときと同じ話題が上がっており、この2回分を観比べれば2人が公で話せることが如何に限られているかが分かるだろう。, で、更に前となると、1998年春に放映されたFNS番組対抗のクイズ特番まで遡る。このときのやりとりが群を抜いて面白かった。おそらく、観客が「笑っていいとも!」とは違って(掴みどころのない)一般女性客ではなく、解答席に座る第一線の俳優・タレント・司会者たちだったから、2人とも芸人=“ちゃんとしてないこと”をする代表としての立場をいつも以上に意識した出演だったのだろう。, 特に印象深いのは、ワンコーナー司会で途中からスタジオに登場したタモリが、解答席のたけしと目が合うなり発した一言「あれ何、奇跡体験アンビリバボーって、自分の人生のことじゃないの?」。, ふいを突かれたたけしは悔しそうに拳で口を隠しながら笑い「大きなお世話だ、ちくしょう!」と咆哮。「(番組に)出てた?」と追い討ちをかけるタモリに対して「あんただって昔いい加減なことやってただろ!アタマだけ出てきて、石原裕次郎みたいなやり方しやがって!」と「世にも奇妙な物語」のストーリーテラー役についてイジり返していた。この映像は“芸人としてのBIG2邂逅記念”として今でもVHSテープに残してある。, ■外側から攻めたタモリ、内側から攻めたたけし  2人ともメディアのほうぼうから、バラエティ界全域の様相や今後の引き際について問われる機会が多いため、永く共演しない間も互いの存在に言及することはしばしばあった。以下は、書籍 「赤塚不二夫対談集これでいいのだ」(2000年)より各対談から抜粋。, タモリ:オレたちは、オレたちより上の世代を否定しようと思いながら、いろいろな上の世代からの否定をかい潜ってやってきたという戦友意識があるんですよ。一応、伝統的なお笑いの世界でやってきたタケちゃんなんて、オレ以上に否定的なものを受けてますからね(中略)なんか圧力みたいなものを感じましたから。タケちゃんとはそういうものを同時期に感じながらやってきたっていう意識がありますね。だけど、今のタケちゃん見てると、エネルギーあるなぁって思いますよ。よくやってますよ。オレには、あんな精神力ないですね。, たけし:中央の文化がお笑いに目を向けない時期がずっと続いてたんですけど、我々(ツービート)の出る一、二年前から高平哲郎さん(番組演出家 、タモリの初代マネージャー)なんかと一緒に新しい笑いがスーッと出てきたんです。そん中に赤塚さんとかタモリなんかもいたんですけど、我々は浅草の非常に上下の関係がうるさいところで漫才やってたから、近寄りがたい妙な世界があるなって思ってましたね(中略)ほとんど文化人でしたからね、彼は。文化人がお笑いやってるって感じでしたから。ポカーンと開拓できる空間ができたんでしょうね。, たけしは、タモリの印象を「ほとんど文化人」と語っているが。今では映画監督として世界規模で大成し、画家・芸術家として個展を開き、小説でもヒットを飛ばし、レギュラー番組の大半が教養/社会派バラエティになっているたけしのほうが文化人色が強い。, 片やタモリは「笑っていいとも!」「タモリ倶楽部」「ミュージックステーション」を30年余り継続し、盛衰のはげしい数多の芸能人たちとの接触をめんどくさがらずにこなしてきたことで、超大物でありながらも共演者を誰1人緊張させない稀有なタレントとしてテレビの中に自然と居続けている。つまり、昔と今とで2人の立ち位置(業界との関わり方)は入れ替わりに近い状態であり、2人の距離感は特別遠いままなのである。, これは、あくまで私見だが。ビートたけしの親友といえば島田洋七、ビートたけしの戦友といえば明石家さんま、笑福亭鶴瓶、志村けん。ビートたけしの僚友といえば高田文夫。ビートたけしの遊び仲間といえば所ジョージ。ビートたけしの相棒といえばビートきよし。そしてビートたけしのライバルといえばタモリ、ただ1人だと思う。, 「笑っていいとも!」が終わってすぐの頃は、このまま活動意欲が減退していくのではないかとさえ懸念されていたタモリ。1年間限定放映された「ヨルタモリ」にて“密室芸”に準ずるパフォーマンスを次々披露し、一方で今やNHKの看板番組である「ブラタモリ」を再始動した頃には、杞憂という言葉すら忘れさせていた。, 片やたけしは、かねてから継続していた「FNS27時間テレビ」での“火薬田ドン”がすっかり夏の風物詩(ライフワーク)として定着。いつまでも過激なバカバカしさに邁進する芸人像を毎年その時間に集約させている一方で、彼の原点である時事漫談をついに報道番組「ニュースキャスター」の中で毎週披露するようになった。, 世知辛い社会や勝負の世界を遮断した笑いを求める男と、そこにこそ飛び込んで笑いを求める男。声に出して認め合いながらも、どうしたって交われない関係。これぞ真のライバル同士というものだ。タモリ・たけしがテレビに出てこなくなる日常は、たとえばマクドナルドやケンタッキーが都会の繁華街に一軒も見当たらないような感覚だろう。また彼らがテレビで揃うとなれば、カーネル・サンダースが赤髪のピエロになったような感覚であり、これまた非日常的な出来事なのである。  小さい頃は、いつか2人が2人だけで番組をやるのを期待していたのだけど。今ではその近くて遠い距離感にそれぞれの現役感を再認識し、Xデーはまだ先のことなのだとかえって安心している。.